2012年12月5日水曜日

シェーンベルク「浄夜」


シェーンベルク/浄夜/ブーレーズ&ドメーヌミュージカルアンサンブル(1975)



結局のところ、この人は「調性音楽をぶっ壊した」人として歴史に名を残すのでしょう。
しかし「浄夜」は無調性ではありません。そしてリヒャルトデーメルという詩人の詩を題材にした標題音楽です。
シェーンベルクは20世紀の人ですが、この曲はギリギリ19世紀の作品です。
これを聴けば彼が無調性音楽でいたずらにデタラメをやっていたのではないことがわかります。
題材となった詩も素晴らしい。訳詞によってかなり内容の解釈に差は出るのですが、僕の一番好きな訳はとても直訳的なこのレコードのライナーノーツの訳です。他のサイトからコピペすれば良かったのでしょうけれど、変に文学的な意訳よりも、直訳の方がこの詩の本質をよく表しているので、頑張って書きます。



浄夜 (リヒャルト・デーメル)

枯れて冷たい林の間二人が歩いている
月が二人を照らし、彼らはそれを見上げる
高い樫の木の黒い先端が空にそびえ、その上に月が走る
空の輝きを曇らす雲は一つもない
女の声が話す


私は身ごもっていますが、あなたの子供ではない
私は罪を感じてあなたと歩いています
私は私自身をひどく辱めてしまった
私は幸福な未来が信じられなかったが
充実した生命と母としての幸福と義務に
強い憧れを感じていました
そして私はわななきながら、見知らぬ男に身を任せ
それを祝福さえしてしまった
今や生命が私にしかえしをして
今私はあなたに出会ったのです

女はおぼつかない足取りで歩み、空を見上げる
月とともに歩み
彼女の暗い眼差しは光のなかに溶ける

男の声が話す
あなたの身ごもっている子供は
あなたの魂の重荷ではない
世界がどんなに明るく輝いているか、ごらんなさい
すべてのまわりに輝きがある
私たちは冷たい海の上をただよっているが
私からあなたに、そしてあなたから私に
暖かさが直接伝わってくる
それは他人の子供を清め
あなたはその子供を私のために生むでしょう
あなたは私に輝きをもたらした
あなたは私を子ども自身にしてしまった

彼は女の腰をつよくだきしめ
彼らの呼吸は風のなかで口付けを交わす
二人は清められた明るい夜に歩いてゆく




ズービン・メータ&VPOの浄夜
http://youtu.be/B-ii8JMPUxc

2012年11月28日水曜日

マーラー交響曲第4番「大いなる喜びへの賛歌」



マーラー交響曲第4番「大いなる喜びへの賛歌」/サー・ゲオルグ・ショルティ指揮/キリ・テ・カナワ(ソプラノ)/シカゴ交響楽団/LONDON(ポリドール)/1983年録音/LP


マーラーにしては珍しく、全編希望に溢れた交響曲です。


マーラーの4番は不思議な魅力を持っています。

「好きか?」と言われると首を傾げてしまうのだけれど、何も考えたくないけれどアタマの中が空っぽにしたくてもできないような時になぜか聴きたくなるのです。マーラーなのに、です。
この曲が頭の中を占領すると、なぜか気持ちがゆったりとしてきます。
4番は、全体的に恣意的で耳に触る事もあるマーラーの交響曲の中にあって、音楽と正面から向き合わなくても音楽の世界に入っていける楽さがあります。


マーラーは5番のあの有名なアダージェットといい、多くの交響曲の中で緩徐楽章に素晴らしく美しい曲があります。
どんなに希望がなく激しく皮肉に満ちた曲でも緩徐楽章だけは例外なく美しい。

この4番も、第三楽章がとても美しい旋律です。
こんなふうに→ 








そして第4楽章は突然ソプラノの独唱による歌曲になります。


マーラーは交響曲の2番から交響曲に合唱や独唱を入れて交響曲を作り始めました。


交響曲に人間の声を初めて入れたのはベートーヴェンの第九ですが、マーラーの交響曲は半数以上が「歌入り」です。


その最高潮はいわゆる「千人の交響曲」と呼ばれる第8番で、文字通り約1000人の演奏者と合唱者が必要という、とんでもなく大掛かり。演奏会を行うだけでも何年かに一度の大イベントになってしまうそうです。


でもこの4番はソプラノ一人でコンパクトです。





ショルティ&シカゴ交響楽団の演奏はLONDONの録音の素晴らしさと相まって、透明感があって、柔らかくて、みずみずしいのが特徴です。
同じショルティとコンセルトヘボウの録音(1961年)も持っていますが、コンセルトヘボウはハイティンクとの録音の方がより透明感があって素晴らしいです。


ハイティンクとアムステルダムコンセルトヘボウ管弦楽団の録音はマーラーにせよブルックナーにせよ、マーラーを正確に理解しているように思います。





現代的でけれん味がなく優しさに溢れている。それでいて深い後味が残る。小澤征爾のブラームスやバッハにも似たものがあります。





初めてマーラーを聴かれる方にはハイティンク&コンセルトヘボウをおすすめします。マーラーを世界に広めた功績が大きいと言われるバーンスタインは感情や癖が強くて、初めての人にはあまりおすすめできないかもしれません。




マーラーSym No.4/ハイティンク&コンセルトヘボウ(1967)








Youtube

ハイティンク&コンセルトヘボウの2006年の録音だそうです。(第一楽章)
http://youtu.be/5GWqE8ySC4c


第4楽章。ソプラノ独唱が入り、歌曲化した楽章で、しかもいわゆる交響曲にありがちな大団円の終章がない、地味に掟破りの楽章。
http://youtu.be/3D8A2GWalhY

2012年11月22日木曜日

Collectors' Items/MilesDavis sextet(1953,1956)




A面1953年のセッションと、B面1956年のセッションという、ちょっと年の離れたセッションの寄せ集め。

A面の1953年のセッションは、マイルス・デイビス、ソニー・ロリンズ、そしてチャーリー・パーカー(チャーリー・チャンという変名でクレジットされている)のセッション

まあ、チャーリー・パーカー(sax)は言われているほどヘロヘロではないにしても(チャーリー・パーカーはアドリブの天才と言われていたが、麻薬中毒で1950年代にはアドリブもかなり鈍り、このセッションの2年後に34歳(!)で死去)、他のメンバーのソロも含めてちょっとアパシーなところがあります。

リフもソロもオールドスタイルで流している感じ。ただ、なんとなく味はあります。

B面1956年のセッションはベーシストがパーシー・ヒースに代わってポール・チェンバース。そしてソニー・ロリンズ(sax)、トミー・フラナガン(P)。

B-1曲目の「No Way」はマイルスがのっけからアドリブソロを突っ走らせています。

基本的にはハード・バップなのですが、ポール・チェンバース(b)ベース・ラインがとてもスリリングなおかげで3人のソロに緊張感がみなぎっています。




The Serpent's tooth(take1) (A-1)



No Line(B-1)

2012年11月21日水曜日

Bag's Groove/MilesDavis and The Modern Jazz Giants (1954)


ここ数日はマイルスとベートーヴェンのヘヴィローテーション。
どちらも普段あんまり聴かないんだけど、マイルスデイビスは「マイルス」と唱えると聴きたくなり、ベートーヴェンは「フルトヴェングラー」と唱えるとむしょうに聴きたくなるのです。(なんで)

マイルスがドラッグを克服し、Prestigeでレコーディングを始めてからのセッション。ハード・バップの名曲です。

だんだん緊張感が増してモードっぽくなりつつあますが、まだまだモードの時代じゃない。



セッションメンバーはセロニアス・モンク(p)、ソニーロリンズ(sax)、ミルトジャクソン(Vib)など。



みんなコードの呪縛から離れて、新しいメロディを奏でたくてジタバタしながらフレーズを模索しています。ビリビリします。



でもやっぱりパーシー・ヒース(b)のベースがルートをがっちり抑えて離さないので、誰も飛び出せない。


本当にコードから自由になるためには、ベースが遊ばないと話にならない。


これはパーシー・ヒースの問題ではなくて、ブルース進行でこういう曲だからなんだけど、やっぱり各々スケールの限界を感じている。





特にそれを感じるのがセロニアス・モンク。彼のコード破り(厳密に言うと和音を鳴らしているのでそれもまたコードなんだけど、ソロの際に取り決めとは違う音が出てくるので、他から浮いてノーコードに聴こえる)が、マイルスの後のモード・ジャズに少なからず影響を与えている事は確かなようです。





Bag'sGroove(Take1)
http://youtu.be/I0d5LU6SCz8

2012年11月19日月曜日

Kind of Blue/ MilesDavis sextet (1959)







晩秋の曇り空。コーヒーの香りとマイルスが部屋を満たしています



前期マイルスの名盤。Beethovenで言えば「英雄」、Beatlesで言えばHelp!、LedZeppで言えばIII。
極端に言えば、モダンジャズはこれ1枚でもいいかなぐらいです。
特にA面3曲目「Blue in Green」は何度聴いてもため息が出ます。

マイルス以前、マイルス以降というJAZZの流れを作ったアルバムとも言われています。
すべての曲が、スケッチ的なテーマのみ収録1時間前に提示され、ほぼぶっつけ本番、インプロヴィゼイション(即興)同様のワインテイクで演奏されています。とんでもない緊張感と音楽の化学変化…いわゆる「モード・ジャズ」の走りのアルバムです。

もちろんあの忌々しい「コード進行」などというものはどこにも存在しません。コードから解放されてこそ、音楽は無限大の可能性を発揮するのだという真実を、マイルスはこのアルバムで見事に証明してくれています。


ピアノはビル・エヴァンス、サックスはコルトレーン。


So What
誰でも一度は耳にしたことのある名曲
http://www.youtube.com/watch?v=DEC8nqT6Rrk&feature=colike

Blue in Green
一番好きな曲
http://www.youtube.com/watch?v=PoPL7BExSQU&feature=colike


2012年11月18日日曜日

バルトーク/弦楽合奏のためのディヴェルティメント/バイヤール室内管弦楽団(1977)


「ディヴェルティメント」というのは、だいたいが貴族の食事やパーティ、祝賀会のBGMとして使われた音楽なんです。モーツァルト嫌いの僕もディヴェルティメントだけは好んでかけます。ただし食事時。聴こえるか聴こえないかぐらいの音量で。

だけど、バルトークのこのディヴェルティメントと称する音楽だけは、食事時にはかけないだろうなあ。BGMとしてはキツイ。
真正面から聴いたほうがいいです。



Zagreb Soloistsによる演奏
http://youtu.be/vemkwcuNiT4

2012年11月17日土曜日

Bruckner Sym Nr.9/ サイモン・ラトル&BPO(2012)




よくもまあ、音楽にこれだけ集中耽溺できるのだと、自分に対して改めて感心、半ば呆れています。
かといって、論理的、系統的、分析的に聴いている訳ではないのです。それが時折コンプレックスでもあり。

同じ音楽を聴いた時「これは〇〇の情景だね」とか「これは提示だ、否定だ」とか、音楽好きの友人知人がすぐさま解釈指摘しているのを聞くと、僕は「え?え?」となってしまう。

ベートーベンの第九の第4楽章で、あの有名な歓喜の歌の主題が最初に出てくるところがあります。
それが、コントラバスによって「否定」されるところがあります。

これを「否定」とすぐさま感じ取るためには、楽曲の解説を勉強するか、ドイツ語の「Nein」を知らないといけない。
実際、コントラバスは「ナーイン!」と言ってるのですから。
すごいよベートーヴェン。。。
でも僕はこれを感じ取る感性には乏しい。

あの部分は僕にとっては長いこと余計な音でしかなかった。
そのうち「起きろ!目を覚まして歌を歌い出すのだ」という声聞こえるようになって。。。
「おーいっ!」です。


子供の頃、一番大好きな交響曲は、ベートーベンの6番「田園」でした。これは標題音楽で、非常にわかり易かった。音楽によって描写しようとしている情景がはっきりしているのです。
けれども大人になるに連れて、標題音楽はだんだんニガテになってきました。

標題と言えばRシュトラウスやムソルグスキーなどは、最初はイメージしやすいのでとっつきやすいのですが、飽きも早い。
それで次第に「作曲家の意図や背景」を具体的に感じるのが難しい、つまり、どうとでも取れる音楽の方が好きになっていきました。


まあ、どうとでも取れる音楽というのは実際はそうはないんだけど、純粋に音が人間の感情や思考、魂、精神性、身体に与える影響というものが、音楽にはある。
優れた音楽というのは、具体的な描写を意図で縛られた音楽よりも、作者自身の意図を超えたところに、音楽の神がかった力というものが存在し、作曲者は神の代弁をしている過ぎないと、僕は思うのです。


JAZZでも、ソウルやブルース、デキシー、ビーバップの影響が強いものより、どちらかというと無調気味で即興的で無機質な演奏の方が好きです。
かといってフリージャズが好きなわけでもないんだけど。

やっぱり音楽というものには「第一の意図」はどうしても必要で、その意図を離れてこそ音楽なのです。意図が全く存在しない音楽は音楽ではなく、単なる雑音である。

さてそういった意味でも、ラトルとBPOの今年録音のブルックナー9番は僕にとってとても意味のある特別なブル9です。

ブルックナーは、この9番を完成させる前に亡くなってしまいました。それで9番は第3楽章までしか存在しません。ところがこのラトル指揮の9番は第4楽章まであります。

それは、ブルックナー研究者による、散逸した草稿からの復元という試みによるものです。
時代を追うごとに、実は第4楽章は、かなりのところまで書き上げられつつあったということが分かっています。彼は死の日の朝までこの第4楽章の推敲を重ねていたそうです。ところがその日の午後に亡くなってしまう。

そして死の直後に、弔問に訪れた知人や市民達が、完成しつつあった第4楽章の草稿を記念品とばかりに勝手に持ち去ってしまう。。。
痛々しい話です。

その草稿が、最近少しずつ見つかってはいるようなのです。

第4楽章の復元と演奏に賛否はあります。

もちろん第3楽章のアダージョで完結なのだという方が主流です。
確かに最後のワグナーチューバのコーダは、彼が死を迎えた時の情景、永遠を表している様な解釈の方が自然かもしれません。

しかし僕にとっては、この第3楽章が終章とはとても思えず、ずっと何かすっきりしない違和感を感じていました。
少なくともブルックナーの他の交響曲を聴く限り、これはやはり未完成でしょうと。

シューベルトの「未完成」は、あれはあれでもうお腹いっぱいなんですが、ブルックナーの9番はかなり違う。

まだ足りないんです。

作者の意図も然ることながら、それを超えたところに、ブルックナーの芸術はある。
それは、交響曲第0番から綿々と続く。それにはれっきとした法則がある。

第3楽章で主題が日常から徐々に壮大な宇宙へとステージを変えていき、第4楽章の途中で突然雲が切り開かれるようにして目の前が明るく広がる。

この9番の言わんとしているものも同じだ。
第3楽章では、聴く者はまだ人間と神の間で煩悶しているような状態だ。それが次第に神に導かれて視野が広くなっていく。
そして、最終的な解決はあのコーダのフェルマータによって導かれ、第4楽章に引き継がれるはずだ。
第3楽章のあれはまだ大団円ではない。神の救いではない。和解でもない。
あれはまだ神の声の前触れでしかない。

「さあ、いよいよだ」

そう言ってる。
その感覚的解釈が、僕の中に存在するのです。
だから続きをどうしても聴きたい気持ちに駆られるのです。

これは決して学説的に正しい解釈の態度ではないのかもしれませんが、ブルックナーの芸術の素晴らしさは、音楽が非常に普遍的な音が並んでいながら、総合された音は個々の精神一つ一つに対応してしまうというところにある。
まさに「神」と見事な相似性を持っている。
そういう意味で、学説や作者の意図が、単なる「第一の意図」で済まされてしまうほどの壮大さがある。

これまでも、草稿を断片的につなぎ合わせて演奏している例はあるのですが、ラトルのこの復元版(SPCM2012年補筆完成版)は、余計な創作を極力排除し、なるべくブルックナーならこう完成させたであろうという「法則」を見つけ出して草稿を丁寧に結びつけて復元したものだと言われています。

この第4楽章が完璧なものであるとは誰も思ってはいないでしょう。これからもどんどん分析は正確さを増し、第4楽章は作曲者の第一の意図に近くなっていくでしょう。

今は完全ではないにしても、このバージョンをラトルがベルリン・フィルが、今の空気の中で(研究者としてではなく演奏芸術家として)解釈し演奏するということ自体が意味の深い事で、この試みは非常にうまく行っていると断言できます。

感想は…

まさに、あるべき最終章だと思います。
ラトルはこれまであまり好きな指揮者ではありませんでしたが
心から「ありがとう」と言いたいです。


2012年11月14日水曜日

Bartok/The Muraculous Mandarin / Boulez & NYP(1971)



過去一度だけ僕はこの「マンダリン」を抜粋で聴いたことがあります。本当に不気味で訳が分からないという印象しかなく、久しく忘れてました。
この音楽は本来パントマイムと合わせて上演されるのですが、作曲された当時も内容があまりに不健康過ぎて初演が1日で打ち切り、バルトークの生前は全く顧みられなかったそうです。

その内容とは…



3人の男に売春を強要されている少女。窓の外を通りかかる人たちを誘っている。少女は中国の宦官風の不気味な男を誘惑してしまう。不気味すぎるために少女は彼から逃げ惑う。隠れていた男達はこの宦官を殺しにかかる。が、殴ってもナイフでメッタ刺しにしても死なず、宦官は少女に挑みかかろうとする。あまりに死なないので宦官は部屋の天井から吊るされる。それでも死なず、少女のほうを見つめている。最終的に少女は意を決して宦官を下ろすように男たちに頼み、宦官は少女に抱きつく。少女もそれを受け入れる。その時、やっと宦官の息が絶える。

という、まあ現代でも十分にエグさ爆裂の内容です。
当時のヨーロッパの情勢を考えたり哲学的分析を加えることで十分に深い内容や一定の評価もなされているのですが、それにしても、この非常に近代ヨーロッパ的で神経症的で陰鬱とした内容の音楽が、というかバルトークの音楽全体的に言えることですが、なぜかフィジカルでバカが付くほど健康的なアメリカのオーケストラや、小澤、ブーレーズといった、一見明るく表層的と思われている指揮者がやった方が定評があるというのが、なんだか不思議な感じもします。


でもショスタコーヴィチみたいに救いようのない陰鬱さとは違い、それだけでない何かがあるような気もします。まだわかりません。


不気味ではあるけれど、不思議に収束感のある、要するにとっちらからない、聴き応えのある曲です。

もしもマンダリンのあらすじから遠ざかって何か違う解釈(というか妄想)ができれば、もっと面白くなるのかもしれません。

しかし返す返すも、今年のサイトウキネンフェスティバルでもバルトークの「青ひげ公の城」が上演されていたことは知っていたんですが、もう少しバルトークの魅力に気づくのが早ければ僕も行きたかった。。。残念です。

2012年11月13日火曜日

MontreuxII / Bill Evans trio(1970)



ブロムシュテットのブルックナーを聴きに行った時、隣になった老紳士(78歳)が、連れ立っていた妙齢の女性に言っていた言葉を小耳に挟んで僕は密かに膝を打ちました。

曰く「こういう生の演奏が採れたての鮮魚や野菜だとすれば、CDは缶詰なんですよ」


とすれば、MP3はカップラーメンで、アナログレコードは個人経営の食堂かレストランだネ!

アナログは当たり外れが大きくて、録音技師の腕次第みたいなところがあって。。。
まあ、カップラーメンもたまには食べたくなるし。。。

とまあ、立ち聞き(座っていたけど)はともかく、ところでビル・エバンスは、CDもアナログもあんまり聴いている音に差異がないなあといつも思うのです。

グレン・グールドもそうなので、「ピアノという楽器のせいかな?」と思ってはいます。

CDの音質が近年進化したとはいえ、アナログに比べてどうしても一般的に臨場感に劣る原因を、僕は常々、よく言われている周波数帯の限界にあるのではなく、16bitという括りでは非整数倍音を捉えきれてないせいではないかと考えています。

例えば同じ22MHz上限の音でも、16bitではなく、24bitで録音〜再生したものは、実感として明らかに音抜けがよく、臨場感がある。

ピアノという楽器は他の弦楽器や管楽器に比べて非整数倍音が高度に管理されていて、意表をついた倍音は出ないようになってるため、16bitでも十分に補完できる音が出てくる。

けれどもバイオリンなどの弦楽器や管楽器は非整数倍音は楽器の個体差によって異なるし、意図しない雑音としての倍音もたくさん出る。
それは16bitではどうしても捉えきれない。

それで、僕はオーケストラや管楽器のCDをかける時は、うっすらホールリバーブをかけるようにしています。

これは、生音とは別系統でリバーブマシンを通したリバーブオンリーの音を別のアンプ&スピーカーで出すのです。リバーブマシンは言ってみれば倍音発生装置なので、そうすると部屋の残響とこのリバーブがブレンドされて、かなりの倍音補完ができ、音の抜けが良くなるという寸法なのです。

邪道と言えば邪道なんですが、オーケストラなどは、元々ホールトーンが痩せてしまっているCDが多いので、まあ、この手もありかなと。
安いセットをやりくりして見つけた方法です。
缶詰だって工夫すれば立派な料理になると。

ビル・エバンスとは全く関係ない話でした。

このアルバムの聴き所はなんといっても最後のPeri's Scopeのセッションじゃないでしょうか。

Peri's Scope

Someday My Prince Will Come / MilesDavis sextet (1961)



十数年聴いてもさっぱり分からないJazzの中で(メンタルがないんだろうな)、でもビル・エバンスとマイルスだけは、気が付けば手元のJazzのレコード・CDの中で群を抜いて多くなってしまいました。

その中でもかなりのヘヴィロテでかけているアルバムがこれ。
walkin'などの緊張感溢れるセッションもいいけど、流して聴くのはこちらの方が抜けてて分かりやすく健康的。


それにしても、ビル・エバンスはそうでもないんだけど、マイルス・デイビスはやっぱりLPで聴くのが断然いいです。
昔、海の見える喫茶店で無口なオーナーがかけていたマイルスのミュートトランペットとベースの響きや息遣いはCDではとても望むべくもなく。。。SACDはどうなんだろ。

PFRANCING

2012年11月8日木曜日

バルトーク弦楽四重奏全集・東京クァルテット(1975〜1980)



バルトークの弦楽四重奏にぞっこんなのです。
やはり弦楽四重奏はなるべく全集で聴きたい。

そういう願いを持つ際に、良いニュースが一つ、悪いニュースがひとつ。


良いニュースは、バルトークの弦楽四重奏曲は6つだけ。だから予算的に安くて済む。これがベートーヴェンやハイドンになるとCDでも10〜数十枚になってしまう。
バルトークならCDでもアナログでも2〜3枚でいい。

でも、できればアナログで聴きたいなあ。

悪いニュースは、バルトークの弦楽四重奏なんて基本的にクラシック上級者やマニアしか聴かない。故に市場に中古のアナログレコードなんか出回るはずもない。

と思っていたし、実際中古レコード屋さんを廻っても、まず見当たらなかった。いやバルトークの弦楽四重奏曲そのものはあるんだけど、べらぼうに高いしバラバラで存在するだけだった。

ところが、友人に勧められて寄ったレコード屋で、よりによって東京クァルテットの全集が投げ売りされているのを発見!

自分的にはあり得ない値段。状態も素晴らしく良い。しかもドイツ版と日本版の両方がある!

もちろん即買い。
ただし僕はオーディオマニアではないので「音がより良い」とされるドイツ・グラモフォン(録音や初プレスがドイツなので当たり前)の方には目もくれず、丁寧な解説付きの日本語ライナーノーツが入った日本盤ボックス・セットの方を即買い。

バルトークの音楽についてここで何かを書くには、まだまだ知識も解釈も聴きこみも足りないので、説明はしません。

ただ、以下の2つのことは言えると思います。

ほぼ無調性の現代音楽なので、予備知識やチャンネルがないと全くもって聴けないほど、とっつきにくい。

バルトークは、ドイツ・オーストリアを中心とした音楽とは感性がちょっと違う。


僕もかつては無調性音楽なんて全く興味がなかったのですが、このバルトークは、スノッブでもなんでもなく、そこに浸ることができます。

これまで感じていながらどうすることもできなかった、具象と抽象、感情と分析的思考のはざまの、すっぽり抜けていたものを、バルトークが音楽的示唆によってひとつひとつ埋めてくれている気がするのです。

2012年11月6日火曜日

ヘルベルト・ブロムシュテット指揮 バンベルク交響楽団




2012年11月1日(木)
ベートーヴェン:交響曲第3番 変ホ長調 op.55 「英雄」
ベートーヴェン:交響曲第7番 イ長調 op.92

(アンコール ベートーヴェン:エグモント序曲 op.84

2012年11月6日(火)
モーツァルト:ピアノ協奏曲第17番 ト長調 K453(ピョートル・アンデルシェフスキ)

(アンコール バッハ:フランス組曲第五番からサラバンド)
ブルックナー:交響曲第4番 変ホ長調 「ロマンティック」(ノーヴァク版)








1日と6日とも堪能してきました。

特に6日は素晴らしかった。体調があまり良くない中で行ったのに、帰る頃にはすっかり良くなって陶酔の中にいました。全くオーバーでなく歴史に残る名演と言ってもいいのではないだろうかと思います。

詳細な感想や批評はここでは書きませんが、ブルックナー4番を演奏するというのはブロムシュテットにとって、そしてバンベルク交響楽団にとって、(いろんないきさつや由来があって)本当に特別で素晴らしい事なのだと実感しました。



もう一つ、ピョートル・アンデルシェフスキ(ピアノ)のアンコールで演奏されたバッハ(たぶんフランス組曲第5番サラバンド)は、この世のものとは思えない美しさ。


演奏が終わっても、拍手がしばらく起きなかった。それだけ彼のピアノに吸い込まれ、感動の渦の中に聴衆全員が飲み込まれていました。


このアンコールの時も、そのあとのブラ4の時も、なかなか出会えない、会場中のすべての人の感動の共有感というものが、
この夜のサントリーホールにはありました。



正直に言って、6月のパーヴォ・ヤルヴィよりもずっと感動が深かった。
そして、何度も言いますが全然負けてないのが日本の飯守泰次郎です。






2012年4月27日金曜日

大フーガ ベートーヴェン弦楽四重奏曲第13番



ベートーヴェン弦楽四重奏曲第13番変ロ長調op.130 大フーガ(op.133)付き
ラサール弦楽四重奏団・グラモフォン・1972年録音・LP

ベートーヴェンには、16曲の弦楽四重奏曲がある。その中で、特に傑作と呼ばれているものが何曲かあり、最後期の13番(作品130と133)は演奏者にとっても鑑賞者にとっても難易度も芸術性も特に高い曲として知られている。

その理由の一つに、最終楽章の存在がある。初演当時、あまりの長さ(15分ぐらいある)と難解さに不評が過ぎ、あの頑固一徹のベートーヴェンでさえ、周囲の指摘を受けて、最終楽章を平易な曲に書きなおし差し替えたほどだ。

それでその後、この最終楽章は13番から切り離され、「大フーガ」と呼ばれるようになった。
しかし現在、13番は最終楽章を「大フーガ」付きで演奏するものと、平易な第6楽章付きで演奏するものとが並立することになっている。

「フーガ」というのは、対位法(それぞれの声部が独立した曲や旋律を奏でている様に聴こえるが、全体で聴くと和音が成立して聴こえる曲の形式)で書かれた曲の一種で、簡単に言えば、最初にひとつのフレーズが独奏または単音で提示され、それを別の楽器(声部)が次々に度数を変えたり変奏しながら追いかけ演奏してゆく形式の曲だ。J.S.バッハにはこのフーガ形式の名曲がたくさんある。


バッハの超有名なオルガン曲のフーガ・ト短調が、とてもわかりやすい。最初に主旋律の提示があって、後から追いかけておんなじフレーズが被る。
それが前の主旋律と矛盾せずに「対位」しながら曲が進んでいく。



輪唱に似ているけれど、輪唱は全ての声部が常に同じフレーズを追いかけるのに対し、フーガは途中で旋律が変奏曲のように変化していったり、度数やリズムも変わったりする。似た様なものに「カノン」という形式がある。より輪唱に近いものを「カノン」、もっと自由で変奏曲に近いものを「フーガ」と言えば、大雑把だけれど覚えやすいかもしれない。

端的に言って、この大フーガは当時の(今もかもしれない)音楽オタクのための究極の曲だ。
ベートーヴェンは、パトロンである貴族や商人が主催する小さな室内楽の演奏会用に、四重奏曲をたくさん書いているのだけれど、そのパトロンであった貴族・商人たちは、音楽や芸術に造詣が深い人達が多く、いわゆる音楽マニアの人たちだ。

モーツァルトの時代までのパトロンは王侯貴族で、主に「食事用」とか「催事用」とか、そういう実用音楽を必要としていた人たちだ。だから耳触りがとてもいい音楽が多い。しかしベートーヴェンの時代になると、パトロンはより市民に近い人達となり、純粋に「芸術」を味わうために全く違う趣で音楽を聴き、芸術家達に援助した。
だからベートーヴェンも自分の芸術的挑戦や才能を遺憾なく発揮できた。
思う存分その前衛性を発揮し、その究極として生まれたのが、この13番の最終楽章として書かれた大フーガだ。



で、ベートーベンのこの大フーガは、最初の提示部もなんだかとっつきにくい上に、展開してゆくと、もう本当に何が起きているのか、分からなくなる。初めて聴いた時(スメタナ四重奏楽団の録音)には、正直最後まで聴くことができなかった。

まず主題の旋律が旋律としてつかめない。そして一度この主題を見失うとどこまで行っても主題の追いかけっこが見えない。見えないどころか、音自体が混沌としてくる。

「これのどこがフーガなんだ?」と思ってしまうのもそうだが、それ以前に、音楽として難解で、現代音楽を聴いているような気分になってくる。

ベートーヴェンの交響曲やピアノ曲は、どれも晩年の作品に至るまで、難解な部分はところどころあっても、全く旋律が読めない訳ではなく、聴いていくうちに共感できていく。

しかし、この大フーガに関しては、共感というものの概念がそれまでの楽曲とは少し違う気がする。20世紀の現代音楽の方が、もっと恣意的でわかりやすいぐらいだ。
それは、この曲が、ソナタ形式とかフーガ形式とか言う、いわゆる古典的音楽の「形式」「様式」に厳密に則って書かれた音楽だからだ。古典的な形式、様式を頑なに守りながら、全く新しい表現方法にチャレンジしている。
これが現代音楽なら、調性も形式も全て吹っ飛ばして書かれているのだから、自由に聴けばいい。
どっちがラクかと言えば、現代音楽の方が作る方も演奏する方も聴く方もラクだ。

決まりきった枠の中で、前代未聞の事をやってのける事ほど難しい事はない。

それでも第一楽章から第四楽章辺りまでは特別難解な曲ではない。室内楽が好きな人なら、ベートーヴェンの芸術の進化を目の当たりでてきる、美味しい展開に聴こえると思う。

しかし第五楽章ぐらいからベートーヴェンの芸術の境地が、聴衆を置き去りにしてひとり歩きを始める。フレーズ自体は優雅で親しみやすいのだけれど、いつまでも終わらないのだ。「ここがコーダ(終結部)かな?」と思うところで終わってくれない。延々と最後まで展開フレーズのくり返しの連続だ。
実はこの終わらなさ加減(無窮動)というのが、次の楽章の主題につながる。

第五楽章でゆるやかに続いた無窮動は、第六楽章、つまり大フーガで大爆発を起こす。前楽章でアダージョで延々と続いていた終わりなき展開が、今度は大フーガではアレグロで延々と続く。もう、それこそ延々と。しかもそのパワーは終盤に近づくに連れてどんどん強く大きくなっていく。
これが大フーガの取っつきにくさの一端のようにも思う。そのエネルギーはいや増しに増す。この無限ループのエネルギーが、まずは前代未聞の要素の一つ。

しかし大フーガの凄さ素晴らしさを形容するのに、それだけでは決定的に不足している。そういう前楽章からの流れがなくても、大フーガは大フーガとして、単体の曲として成立する完成度、凄さを持っている。

その秘密は、大フーガの主題(提示部)のフレーズにある。この主題、おそらく我々が「音楽」として耳にする音の中では、最も聴き心地が悪い旋律だ。音で言うと


ソ-ソ#-ファ(↑)-ミ(↑)-ソ#-ラ-ファ#(↑)-ソ(↑)

<※(↑)は1オクターブ上>



という、全て半音と6度飛びという、およそ不協和音以外の組み合わせしか考えられない音になっている。オクターブを取ると、全て半音同士だ。

例えば拳で鍵盤をランダムに「ダーン」と叩きつけ、出た音を組み合わせ直し、なるべくフレーズとして成立しないように並べると、こんな提示部になる様な気がする。

これは、ベートーベンは意図的、意識的にこうしたのだと思う。ほぼ確信を持ってそう思える。(既に常識ならごめんなさい。評伝や批評文等をあまり読んでないので)

かつてバッハがでフリードリヒ大王から難題の主題(この主題旋律も気味の悪い半音下がりが続くなかなかヒドイものだ)を示され、これで6声の曲(対位法で)を即興で作ってみよなどという無理難題を突きつけられ、しかし最終的には「音楽の捧げもの」という名曲に昇華した出来事の、まるでオマージュのようだ。


普通の才能で、この主題を持ってこられても、まず音楽にはならないだろう。ましてフーガや対位法に至っては、決して和音など生まれるはずもない難解な主題に見える。現代音楽やジャズですら、決してありふれているとは言えない旋律だ。そんなフレーズを今から200年近くも前の、様式でガチガチだった時代に提示し、いかに音楽にしてゆくか、チャレンジ、挑戦、前衛以外のどんな形容が当てはまるだろうか。

実際のところ、当時の人たちには理解されずに終わった。
それは、この曲の持つ主題の難解さ、激しく情緒性のない無窮動だけが耳に届いたからなのだろう。

しかし、本当はこの曲にはもっと深い秘密が隠されている。
これまでの大フーガの特徴をまとめると

  1. 難解でそれ自体では音楽と成り得ない主題フレーズ
  2. まるでミニマル・ミュージックのような激しい無窮動
  3. それによる情緒性の欠如

これが、大フーガの特徴でもあり、我々を遠ざけている主な原因だ。

しかしこの3つの点だけに拘っている限り、この曲の最も重要な点に気づかないで終わってしまう。
その大切な点とは何か。

それは


  1. 4つの楽器全てによる、フレーズのアルペジオの分担が起きていること(三連のち四連)
  2. その連続が、そのまま主題の旋律を作り出していること


繰り返すと
まず最初に主題があり(しかもそれ自体は旋律としては自立し得ないほどランダムにそれを使ってそれぞれの楽器が一音ずつ三連アルペジオの構成音に分解してフーガを奏でる。シンコペーションのあとで、今度は四連のアルペジオになる。それは全て破綻のない旋律と和音で構成される。そしてさらにそれを俯瞰すると、再び大きな「主題の旋律」が見えてくる。

これほど難解な主題でありながら、緻密な和音構成が一瞬たりとも崩れる事がない。(演奏者のタイミングや技量によってそれがちゃんと再現されている時とされない時があるが)

分析的、数学的、幾何学的、文学的、哲学的、ユーモレスク、大迫力、そして音楽的。

というか、この事に気づいた瞬間、もう私はベートーヴェンにひれ伏すしかないと思った。
さいころを振ったような主題から、交響曲にも全く引けをとらない壮大さと、数学的緻密さ、深い精神性、ドラマチックさを兼ね備えた音楽が生まれる。
ベ−トーヴェン自身の他の16曲の四重奏曲はもちろん、ハイドンやモーツァルトにだってなかった、前代未聞の音楽芸術だ。


作曲も度を越して難しければ、演奏者の解釈や技量も難しい。そして聴き手にとっても難解だ。
しかしこの曲には、作曲者、演奏者、聴き手の三者が、それぞれお互いに共感をわかちあう、ある境地が、確かにある。
主題の難解さと、それをフーガにする難しさ、そしてその意味に思いを馳せ理解を試みようとする時、初めてこの大フーガの全曲の全容が見える。

左脳でまず分かり、理解できた瞬間に、右脳で全てが共感に変わる。これがベートーヴェンが最終的に目指した芸術(哲学的音楽)なのかもしれない。

このセオリーはあの交響曲第九番でも存分に発揮されている。第九は、「歓喜の歌」が含まれる合唱部分がポピュラーになっているが、実際、第九の歓喜の歌は、それまでの第一楽章〜第三楽章と、独唱が始まるまでの第四楽章の器楽演奏の果ての結果であって、それだけで成立するものではない。

ただ、私達はあまりにあの喜びの歌を、日常的に耳にしているので、誰でも分かっているように感じている。しかしそもそも歓喜の歌だけで第九が成立するなら、第一楽章から第三楽章までは、必要ないのだ。実際、第九を原語で歌える人にも、第三楽章までをきちんと聴き込んでいる人はそう多くはない。全楽章を聴き込めるかどうかで、第九に対する理解はだいぶ変わってくる。


などと書いてはいるが、私自身も、この大フーガを抵抗なく聴けるようになったのはここ数年の話(いや、半年か1年かな)。プロの音楽家ならみな知っている事なのかもしれないが、鑑賞者としてはこれに気づくのに相当の時間を要した。


まあ、自分なりに聴きこみ方を発見した喜びは小さくなく、いつか大フーガのことについて紹介してみたいと思って、思いと考えがまとまりやっと書くことができた。いや、まとまってないかも。また聴きこんでいくうちに違う理解の仕方になって、考えは変わるかもしれない。

ちなみにこの13番はベートーヴェンが亡くなる2年前、54歳の時の作品、第九番よりも後だ。

この13番(と大フーガ)は、実は15番の後に作曲されたが、出版の順序が逆になったせいで、15番より若い13番という番号をつけられている。また、16番はこの13番とほぼ同時期に書かれており、13番よりずっと肩の力が抜けていて、軽い作品になっている。実際には13番の最終楽章「大フーガ」こそが、ベートーヴェンの室内楽における芸術の結実と言える。



Youtube 

Beethoven - Große Fuge(大フーガ) B-Dur Op. 133 - Alban Berg Quartett



2012年4月16日月曜日

ブルックナー交響曲第2番ハ短調

ブルックナーは、ベートーベンやワーグナーのような音楽を書きたかった。でも、美しい導入を書き始めていいところまで行くと、急に迷いが出始める。「こんなありきたりのフレーズでは、先人達の交響曲に並ぶのは申し訳ない。」

そこでそれまでの導入とは違う展開を急に書きだす。それはもう試行錯誤、未熟者の迷い以外の何物でもない。こうして直前の美しい導入フレーズが台なしになる。

こうした迷いの連続が、ブルックナーの作品にはあちこちに現れる。特にこの2番を含む初期の交響曲には、満載だ。
私はそんなブルックナーの2番が大好きだ。

世の中のいろんなものに囚われ、彼の純粋性を侵犯されながら、いろんなものにチャレンジしながら、最終的には自分でも訳の分からないものに変容してゆく。

しかし、それはひとたび演奏されるやいなや、演奏する者、聴く者に深い洞察力と集中力を呼び起こす。
作者が思いもよらなかった高い芸術性、精神性が、この迷いの集合体に与えられてしまった。

もしもブルックナーがフレージングの天才で、自信満々で誰の忠告や批評も気にせずに交響曲を書いていたら、こんなにも素晴らしいものは生まれなかったのではないのだろうか。

いや、実際彼は天才なのだ(奇人とも言えるが)。しかし自分の天才ぶりをわざわざ否定して、新しいもの、違うもの、自分が踏み入れたことのない世界に突撃してうんうん苦しんでいる。

だから彼は自分の書いたものには常に自信が感じられない。意図は意図を外し、いつもどこかに行方不明になる。
おそらくブルックナーは、自分の凡才ぶりにいつも苦悩していたに違いない。

しかしそんな彼が、自信なく、迷い道でこけつまろびつしながら書き、発表し、他人の言われるがままに手直しした交響曲は、人間の奥底にある全てのものが表出される偉大な芸術になってしまった。
不安や苦境、苦悩、迷い、子供のような喜び、壮大なものへの憧れ、癒し、安寧、生きることの素晴らしさ、神への畏敬の念。。。それらが存分に表現され、魂に伝わってくるのだ。

もちろん本人はそんなことは意図していない。意図どころか思いもよらなかったのだろう。
彼が書きたかったのは、もっと日常的で敬虔なものだったように思う。(彼自身の解説からも窺える)
しかし、そんなものは後世の演奏家達の音楽には全くもって反映されていない。

でも、だからこそ素晴らしい。


才能にあふれていたり、修行して修行して、ある境地に達し、意図通り、あるいは意図も消して、結果としてサラサラ一筆書きのように書いて「名人」とか「天才」とか言われるような人にも、まあそれなりの存在価値はあると思う。その瞬間は人を感動させ酔わせる力がある。

しかしそれは、結局のところ、軽い。存在が軽いのだ。時を超えるほどの重量を伴うことができない。だから結局、その名人や名人と同じような才能を持つ人間の中でのみ収束する。

大好きなピカソですら私は軽いと思うことが多々ある。
彼の作品の中には、素晴らしい作品がたくさんあるが、結局のところ将来的にピカソを超えるような偉大な芸術家が現れた時には、相対的にはかなり埋もれるだろうなというものが結構ある。それは決まって、作者が才能と修行の成果でさらさら書き、発表された時点では絶賛されたものばかりである。
まあ、一部の骨董好きやマニアにとっては、そんなことはどうでもよいのだろうけれど。

しかし、本当の芸術は作者というアイコンを離れざるを得ない。アイコンを離れても存在し続けなければならない。作品自体がアイコンになる。ミロス島のヴィーナスのように。


最終的にそのようにして残り、人々の心にいつまでも深く刺さるのは、自信満々や余裕で書いたものではない。
結局のところ、時代を超えることができるのは、どんな天才であろうと凡才となって、才能以上の背伸びをして、うんうん苦しみながら、意図に意図を重ね、何かに絶えず怯えながら、苦しみ抜いて「結局ここまでか」と、半分うちひしがれながら世に問うたものだけである。

それこそが作者が創作に込めた全魂である。推敲は意図に意図を重ね塗りされ、下地は見えなくなってしまっている。
当然作者の最初のコンセプトなどは、作者の手を離れた瞬間から既に捻じ曲げられ、作者の精神性は隅に追いやられてしまう。
鑑賞者の解釈すらも勝手に一人歩きする。
そうして人々を感動させる。

最終的には、作者の名前すら忘れ去られる。
そこには感動と、神の意図のみが残る。

ブルックナーの2番とは、そういう凡人が創作の神に愛され、自分の意図を必死に追い求めながら、練りに練った挙句、結局は神の意図のみに従うしかなかった、意図がぐるっと一周して無為を超える価値を持つに至った芸術だ。私はそういう練り物が大好きだ。

無為を超える美しさは、意図を練りに練ってしか得られない。

私も自分の凡才ぶりに絶望し、いつも迷いっぱなしだけれど、ブルックナーの音楽は、そんな自分に希望を与えてくれる、絶対音楽としての最高の精神性、凡才のヒーローだ。




2012年4月15日日曜日

「CDよりもLPの方が音が良い」原因(2)

(1)の続き


アナログプレイヤーには、その仕組み上、副次的に倍音を生成する特質がある。
もう少し正確に言うと、「倍音のようなもの」を生成する特質。
それは、雑音を生成する特質と同じだ。


それは、フィードバックと、歪み。



フィードバックとは、一度スピーカーから出た音が、再びプレイヤーの本体を共鳴させ、カートリッジ(振動を検知する部分)に拾われて、音として再生する事を言う。オーディオの世界では、このフィードバックは、「ハウリング」と同一視しており、あってはならないものとされている。だからプレイヤーは基本的にインシュレータや堅い材質などで音の波動を遮断するように作られるし、置き方も細心の注意を払って、スピーカーの共振の影響を受けないように設置するのが常識だ。


ところが本来はフィードバック現象は非常に微妙な響き、音色の変化をもたらす。例えば楽器にはフィードバックは不可欠であり、これが起きない楽器は「ない」と断言できるほど音楽の世界では当たり前の現象だ。

例えばバイオリンやアコースティックギターなど箱鳴りする楽器は、必ずこのフィードバックが起きているし、ピックアップで電気的増幅をするエレキギターでさえ、木の材質によって全く音色が変わってしまう。弦の音を木が共鳴させている自音の共鳴以外に、一度アンプから出た音などが再び楽器のソリッドボディにフィードバックされ、共振して新たな響きが生まれ、それが弦に作用して再びピックアップに拾われる現象が起きているからだ。

弦の振動を拾って増幅する自音共鳴と、フィードバックは似ているようで全く違う。

楽器の胴から増幅された音は、空気中を振動させ、壁や床、あるいは他の楽器の胴をも共振〜共鳴させる。そうしてミックスされた音は全く違う音、倍音や残響(リバーブ)となって再び自分の楽器に返ってきて、再び共鳴する。

エレキギターの場合、アンプを介さずに録音した(ライン録り)ギターと、アンプからマイク録りした音では、まるっきり表情が変わる。
ライン録りの音は、楽器のボディなどで共鳴だけはするが、外部からの音を拾って再び共鳴するフィードバックが全くないために、ペタっとした音になる。
対してアンプ〜マイク録りの音は、空間に発せられた音が楽器のボディやピックアップにフィードバックして響きが膨らんだ音になる。

フィードバックは、原音とは全く違う音を生み出す。
それは倍音であったり、さらにマイクや耳には聞こえない(拾えないが認識できる)振動だったりもする。

そしてこのフィードバックの音域が広い楽器は、倍音成分が非常に多く、倍音のパワーも高い、良い鳴りの楽器と言われる。フィードバックは共鳴と相まって、楽器にサステイン(減衰持続力)を持たせる。
このサステインこそが、倍音の元になるのだ。

倍音は、耳に届く音というよりは、身体のあちこちが感じる音の成分だ。
そしてこの倍音成分の殆どは、マイクで拾ってスピーカーで完全に再生することはできない。

モンゴルやウィグルの伝統的な歌唱法である「ホーメイ(ホーミー)」をご存知だろうか。喉の地声で歌う通奏低音と、口の中でその倍音を出す、一人二声による独特の歌唱法だ。名人になると、地声と倍音旋律を、二声別々の旋律で歌うことができる。

このホーミー、歌い手からどんどん遠ざかっていくと、地声の方は距離に応じて遠くなっていくが、倍音の方はいつまでも聴き手の耳元で鳴っているように感じる。

実際に聴けば、これが鼓膜を刺激しているというよりは、耳骨に直接働きかけている事がすぐに分かる。

教会で歌われるミサ曲では、合唱が進んでいくうちに、誰もその旋律を歌っていないにも関わらず聴こえる不思議なメロディが聴こえることがあるという。それを昔から「天使の声」と呼んでいる。

当然、これらの現象は、CDやレコード録音などでは決して味わうことは出来ない。
もちろん可聴域の倍音成分もあるから、理論上は録音再生できることになっているし、実際にCDでもホーミーの高い旋律はちゃんと聴こえる。しかし、遠く離れてしまえばその旋律も遠ざかるし、やはり実際に聴くホーミーとは全く違うものである。
これが、私達が「CDでは聴けない音」の最たるものだと思う。私はこれを勝手に「超倍音」と呼んでいる。もしかしたらちゃんとした専門用語があるのかもしれないが、可聴域でありながら、録音できない倍音だから、超倍音である。

楽器や生のコンサートのフィードバックで起きる音響成分は、このホーミーの超倍音や天使の声と同質だ。
ホーミーの超倍音と同じものが、コンサートホールでもフィードバックで起こる。ホールの残響が楽器に戻り、楽器がさらなる響きを出す。それらはお互いに共鳴しあって、全く意図しない「別の音」を生み出す。そしてそれらはマイクでは拾われていない。録音された時点でフィードバックによる超倍音は殺されている。

ところが、アナログレコードの場合、この超倍音が部分的に再生されてしまうことがある。いや、正確に言うと、「コンサートの時にあった、マイクでは決して拾う事ができない可聴域の超倍音に似た成分が、新たに生成」されてしまうのだ。
もちろん演奏時の超倍音と同質のものとは言い難いし、完全に再生成されるわけではない。似たものが、再生成される瞬間があるということだ。その瞬間は、数秒の時もあれば、一曲に渡って続くこともある。録音の状態にも左右されるので、絶対に起きるとは言い難いが、概ね聴き手の方の再生環境に以下のような条件が揃っていれば、聴くチャンスは増えるかもしれない。


  1. アナログプレイヤーのベースが、ハウリング特性が低い、やや共鳴しやすい木材で作られている。つまり、あまり高いプレイヤーでも、安いプレイヤーでもこの現象は起きず、なんとなく中途半端なグレードのプレイヤーに起きやすい。
  2. 床や壁が、レコードで演奏されている楽器と同じような材質の木材で構成されている。本木のフローリングや板壁、または漆喰壁で起きやすく、和室や合成素材の床、吸音性の高い壁では起きにくい。
  3. スピーカーの材質も、やや共鳴しやすい木材で作られている。スピーカーに関しては共鳴を前提に作られているものは多いので、ある一定の水準以上で作られたものであれば概ね起きると思われる。
  4. スピーカーとプレイヤーがインシュレート(絶縁)されておらず、同じ音伝導率の素材の上に乗っている。
  5. ボリュームレベルがある程度必要。レコードであっても、ヘッドフォン再生はもちろん、スピーカーのボリュームをゼロにしていても得られない。
  6. 以上のような現象によって、フィードバックによる倍音の再生成が行われ、結果として音圧や膨らみが増して臨場感が高まったと捉えるために、良い音であると耳が感じる。
  7. 特に「鼻に抜ける音」が多くなる。これが実際の楽器演奏の音と同質かどうかは分からない。少なくとも録音時の音をそのまま再現しているわけではなさそうだ。しかし、耳ではなく鼻に抜ける感じの音はコンサートホールでも実際に体験できるし、鼻に抜ける音を感じた時、私達はイイ音であると感じる。

この現象は、デジタルのみの録音→再生では決して起こる事はない。もちろん壁などの反射で残響そのものは耳に届くが、それはあくまでも部屋の残響の域を超えることはなく、超倍音を生む事はない。

しかし、一度アナログレコードをある一定の音量以上で再生したものをデジタルで録音すると(ここはライン)、超倍音とまでいかなくても、ターンテーブルでのフィードバックによって生成された倍音成分は確かに増えた。結果として、売られているCD以上の「臨場感」で聴く事ができた。これが先に紹介したドゥービー・ブラザーズのレコードの顛末。



もう一つの要素の、歪み。これも本来は雑音要素だ。
しかしフィードバックと歪みは、切っても切れないクルマの両輪。
歪みがなければフィードバックはなく、フィードバックがなければ歪みも起きない。
歪みとはとても大切な音の要素だ。

エレキギターは、アンプで増幅する段で必ず歪んでいる。ギターアンプは、どんなにクリアトーンであっても必ず歪み性を持っている。
クランチと呼ばれるかすかな歪みを含ませた音が、倍音も強くなり、キレイに、気持ちよく聴こえる。

ところが、オーディオアンプなど歪み率の低いアンプで再生するなど、完全に歪みを取り払ってしまうと、いわゆるショボい音になり音が沈んでしまう。

バイオリンは、弓で弦を擦る段で既に歪んだ音(ノコギリ波)を発生させるが、弓の使い方や状態によっては、全く歪まない音というのを発生させることが、一応できる。できるが普段はやらない。バイオリニストにとっては、それはミスに過ぎない。

良い音というのは、音源から発せられた瞬間に歪みを起こし、フィードバックを起こし、倍音を発生させる。

教会やホールの残響にも歪みが含まれている。エコー音は元音と干渉しあって歪み、分離性を阻害し、結果的に様々な倍音を発生させる。


CDは理論上、この、「倍音や音圧を発生させる歪み」に関しては全く機会がない。だから、何となく貧弱になったような「気がする」。しかしこれは聞き比べないと分からないレベルだ。


CDであっても、歪率の高い真空管アンプなどで再生すると、とてもふくよかな音として聴こえるのは、CDでなくしてしまった本来の自然な歪みを、アンプの段階で擬似的に増やし、倍音を発生させているからなのだ。

しかしこれも、現実の音にはあったのに、録音時になくしてしまい、再生時に再び「〜のようなもの」として再生成されたもので、実際の超倍音とは違う。それでもないよりは良い。


もちろん歪みやフィードバックが起きればいいというものではない。人間の耳は歪みが少なすぎても多すぎても耳がそれをイイ音と捉えないようにできている。歪みすぎる楽器が楽器にならないのと同じ。

私の経験で、CDよりレコードの方がいい音と感じた音楽、つまり超倍音が再生時に生成されがちなものは
  • 教会等で録音された、通奏低音や対位法の演奏(バロックなど)。元々倍音成分が多い宗教音楽のコーラスなどは特に響く。
  • 室内楽などの中規模の合奏曲。
  • シンプルな構成のベース、ギター、ドラムの演奏。70年代のアメリカのフォーク・ロックなどは、特に倍音成分が再生成されやすいように感じる。
  • 純正律に近い調律法で録音されたとされるもの。
  • ライブ演奏で、倍音成分が多かった(音響が良かったとされる)クラシック
  • 金管の入ったジャズ演奏
  • チェロ、コントラバスの音
など。

逆にレコードもCDもあんまり変わらない、あるいはレコードでも別にイイ音とは感じなかったもの、超倍音が出ることが少ないと感じたもの。


  • 不協和音の多い曲。ドビュッシーやウィーン楽派、ミニマル、現代音楽。
  • ピアノソナタやジャズピアノなど、独奏ピアノ。
  • 交響曲は演奏方法や録音によって極端に違う。
  • 残響の少ないデッドな演奏。
  • ラインまたはオンマイクで録ったと思われる楽器の音。
  • エレクトリックミュージック、電子楽器。



CDをもっといい音で聴くために、超倍音生成機みたいなものを開発すればいいと思う。サラウンドシュミレーターのようなもので構わない。そうすれば、誰もプチノイズだらけのレコードを「CDよりいい音だ」などとは言わなくなると思う。


2012年4月11日水曜日

ブルックナー交響曲第8番ハ短調




この気持をなんと表現したらいいのだろうか。
未だに適切な言葉を失っている。
チェリビダッケという幻の指揮者である。

今、ブルックナーの8番に耽溺しまくっている。
そして、あまりに意外な展開に自分でも混乱している。

ブルックナーについての解釈、いや、音楽についての価値観がひっくり返ってしまったのだ。
それは、チェリビダッケの録音のせいだ。

一言ではとても言えないし、言葉を並べてもその1%も表現することはできないが
汪溢する豊かな倍音、音の遠近感、色彩感、霊感の刺激、塊の波動、救いへの引力。

これが、チェリビダッケを通じて、ブルックナー交響曲8番に対して、私が完全に持った印象だ。

恥ずかしながら、私がチェリビダッケの名前をはっきりと意識して知ったのは、今年(2012年)に入ってブルックナーの8番を真剣に聴き比べするようになってからだ。
テレビに映った姿は生前に見た記憶がある。座って指揮をする姿が印象的だった。立つのはしんどそうだったから、もう晩年の頃だったのだろう。
しかしちゃんと聴いたのは、今年に入ってからだ。情けない事に、彼の没後15年も経っている。今ほど、自分の指揮者に対する無知を恥じたことはない。

チェリビダッケを聴いた後では、カラヤンもクナッパーツブッシュも、大変に失礼だが、ただの雑音に過ぎない。今まで自分が聴いていたものは、一体なんだったんだろう。

チェリビダッケは録音嫌いで有名で、そのせいで生前はコンサートに出かけなければ彼の演奏を聴くことは困難だったという。こういうことも、彼を幻にしてしまった要因ではあると思う。彼は根本的にCDやレコードを認めてはいなかった。録音では彼の言うところの音楽は再現できないのだという。
それは、音楽芸術というものの一般論として何となく分かるような気がする。音楽とは、マイクで拾える音波だけではあり得ない。録音には現れない倍音、魂の交流、波動、氣のやりとりがある。演奏者と観客双方の高揚と霊感の共有がある。それは録音つまりレコードやCDだけを聴くのでは伝わらないし、絶対に理解できない。実体験そのものだけが音楽の本当の体験だ。特に生音を生身の人間が奏でるクラシック音楽においては、録音と生のコンサートとの間には、決して越えられない、かつ大きな大きな壁がある。

特にスタジオ録音(or観客のいないホール録音)には魂の抜けたような録音が山ほどある事は私もよく知っている。音楽家達自身の多くも、それを収入のため、あるいは契約のため、自身のPRのためと割りきっている部分があることも知っている。クラシックにおいては音楽の根幹はあくまでもライブなのだ。ライブにも行かずにレコードだけを聴いて「あいつの演奏はいい」「こいつのはよろしくない」とやっているとすれば、それは音楽が何たるかを全く分かってないに等しい。プロの音楽家の多くがレコードマニアを嫌う理由はそこにある。

しかしそれでもなお演奏家や作曲家をより深く知るための「資料」「教科書」として、我々はそれを十分ありがたがって聴くだけの価値はあるし、近年のCDの音質の向上によって「そこで一体何が行われたか?」ぐらいの推察はできるようにはなってきた。それはライブ体験とセットにすれば「鑑賞物」として十分価値のあるものにはなっていると思う。
そう、あくまでも「ライブ体験とセットにすれば」である。

ライブでチェリビダッケの指揮する音楽を聴いた人は、その後の人生が変わってしまうほどの体験をしたという。それほど強烈なライブ体験とは一体どういうものなのだろう。

CDを求める前から、チェリビダッケが録音を否定した人であるということは知っていた。
ただ、それでもなおかつCDであっても
「今まで自分が聴いてきたものは、一体なんだったのか?」
という思いが爆発するほど、ものすごいインパクトなのだ。
録音でこれほどの衝撃を受けるのだから、コンサートではいかばかりだろう。
自分の意志で「やや真剣に」クラシックを聴くようになって以降、チェリビダッケは少なくとも2回は来日している。まあ、チケットが取れたかどうかは分からないけれど、少なくとも2度はチャンスを逃している事になる。
つくづく自分の不明を恥じるばかりだ。

チェリビダッケ以前のBruckner Nr.8は、私にとっては第二楽章が全てで、第三楽章はどうしても超えられない壁だった。誰のを聴いても眠くなることは避けられなかった。
もう少し言えば、演奏家の方にも、これはブルックナーの交響曲全般に言えることだけれど、集中力の途切れみたいなものを感じることがある。
これは、リスナーとしての自分の技量だけでなく、指揮者自身の解釈にも原因があるような気がずっとしていた。咀嚼しきれてないのではないか?という疑念。
そんなぬぐいきれない思いを抱きながら聴くものだから、余計に退屈になる。
本当に理解に苦しむフレーズがあちこちにあるのだ。

そんな第三楽章でも、指揮者を問わず1箇所(実際にはリピートがあるので2箇所)のコーダ部分だけは、しっかりと伝わってくる。
これ以外は、弦も管も、音が濁って何がなんだか分からない。
で、早々に第三楽章を済ませて、第4楽章の第一主題が始まると、オーケストラ全体が、ほっとしたように引き吹きまくる。これが余計に、実に気持ち悪い。

ところが、チェリビダッケの第三楽章は違う。音がどこまでも澄んでいる。透明感、色彩感。
引き込まれる。
分かる、分かる!ここも分かる!
こんな音楽だった?版が違うんじゃない?いや、普通にノヴァーク版らしいぞ。(ブルックナーの交響曲には、本人や弟子達、研究家などの手によっていくつかの改訂版があって、演奏が違うものがある)


気がつくと、微動だにせず、じっと聞き耳を立てている自分がいる。


こんなに引きこまれ、微動だにせず、音を全部聞き漏らすまいとしたのは生まれて始めてだ。
そして、感動の第四楽章〜コーダ。こんな終わり方だったのかと、涙が溢れる。もう一度聴きたい。いや、いつまでもこの音の中に浸っていたい。そう思わせる演奏だ。

通常80〜90分前後と言われるブル8の演奏の中では、105分を超えるチェリビダッケの指揮は、飛び抜けて長時間の演奏(つまりとてもゆっくり)だとされる。冗長にすぎるという指摘もあるが、私自身はまったくそんなことは感じなかった。むしろ短かすぎるぐらいである。
無駄な演奏、弾き流しはどこにもない。一音一音が意味と意志を持ってこちらに飛び込んでくる。全てが美しい。そして霊感と魂を揺さぶる。
ブルックナーとは、魂の音楽だったのだ。

チェリビダッケによって、今までの自分がいかに音楽を知らなかったか、上っ面だけでBrucknerを聴いていたか思い知らされた。

ところで、チェリビダッケの演奏について誰も指摘していないことだけれど、チェリビダッケの指揮する演奏の魔法のような魅力の原因の一つに、チューニングの問題があるように思う。
詳しくは検証していないので軽はずみに書いて、後で訂正できるようにメモがわりにしておくに留めるが、もしかすると彼は、曲の和音の構成まで全て一つ一つ検証して、純正律に近い和音構成が出るようにチューニングしていたのかもしれない。そうでなければ、この和音、倍音は出ない。
複数の楽器のフレーズが被った時の「鳴り」が、他のオケの演奏とまるっきり違うのだ。


もっとも管はピッチをそんなに極端に変えられないので、絶対的な調律が変わっているわけではないだろう。おそらく楽譜の全ての和音構成を、チェリビダッケ自身が把握して、和音構成と遠近感を計画しているように思える。「この和音が奏でられるためにチューニングされている」としか思えない瞬間がここかしこに存在するのだ。チューニングに15分も20分も指揮者自身が立ち会うという逸話を聞いていると、さもありなんと感じる。それだけチェリビダッケの指揮するオケの奏でる和音は、この世のものとは思えない美しさを放っている。


よく練られた音楽は、空間を浄化するほどの力を持っている。ブルックナーも、チェリビダッケも、そのことを知っていたのだ。
チェリビダッケは、音楽の本当の力を引き出すことに成功している数少ない音楽家だと思う。
彼自身は録音というものを認めていなかったけれども、それでも最低限の歴史に残るべきものはしっかりと伝えてくれている。

何よりチェリビダッケの録音は、ブルックナーが難解な音楽などではなく、退屈で冗長な音楽などでもなく、非常に親しみやすい、美しい調べなのだということをちゃんと教えてくれる。
感謝の気持ちでいっぱいだ。



〜その他の8番〜

我が家には、長いことこのフルトヴェングラー&ベルリン・フィルの録音があったのだけれど、すっかりその存在を忘れ去っていた。そのことに気づいたのは今年に入ってからだった。それで、ブル8の聴き比べがしたくなった。


1949年録音で、音は全くよろしくないが、このフルトヴェングラーの演奏はとてもエネルギッシュで、情感がいっぱいに伝わってくる。多くの指揮者の規範になっているだけあって、まとまり感がとても高い、素晴らしい演奏だ。
ちなみにこのベートーヴェンの申し子のような神的指揮者フルトヴェングラーは、ブルックナー協会の会長でもあった。



オイゲン・ヨッフムとスターツカペレドレスデンのブルックナーは、とてもニュートラルで聴きやすい。他の指揮者に比べるとやや短い(約80分)が、チェリビダッケがそうであるのと同じく、長い短いが問題ではない。ヨッフムの80分は、これでいいのだ。私はこのヨッフムのブルックナーは、かなり理解できると感じる。共感できるところとそうでないところはあるにせよ、第三楽章もしっかりと音楽として成立している。手元にはヨッフム先生のブルックナーが、1,2,4,6,8,9と揃っていて、私のブルックナーの原体験はほとんどヨッフム指揮だと言っていい。おしなべて濁りが少なく、実直で好きな演奏ばかりだ。
ちなみにヨッフムさんもまた、ブルックナー協会の会長を務めたことがある。



巨匠の誉れ高きクナッパーツブッシュ大先生とミュンヘン・フィルの、名盤と言われる8番だが、残念ながら私の感想ではそれほど素晴らしい演奏だとは思えなかった。演奏が粗くところどころ苦しくなる。これのどこが名演なんだろう?何度も繰り返し聴いたが、やはり第三楽章で頓挫する。
最終楽章も、管はがなり立ててミスはするし、弦も雑だ。
私が持っているのは復刻の新品CDだが、新品で買う必要もなかった。LPは21,000円ものプレミアムが付いて中古ショップに置かれてあったが、誰が買うんだろう。こんなものに2万も出す気持ちは分からない。クナッパーツブッシュは、8番の他に、4番と3番が手元にあるが、そっちの方がずっと良い。オケがウィーンであることと、曲自体が当時流行だったというワーグナー節全開なのも手伝っているのかもしれないが、クナッパーツブッシュ先生の名誉のために申し上げておけば、例えば4番(ロマンティック)は、粗さの中にも情感と描写力に溢れる、素晴らしい演奏だ。ブルックナー自身の解説をよく吟味しているのだと思う。ベーム指揮の4番よりも好きだ。
ところで子供の頃は「クナッペルツ…」と教えられていたがいつの間にかクナッパーさんになっていた。





88年のカラヤン先生のブル8。これも残念ながらあまり素晴らしいとは言えない。ブルックナーが聴きたいという知人にこれを薦めてしまったが申し訳ないことをした。全編通して何が行われ、何が奏でられているのか全く分からない難解な物となっている。分からないから眠くなる。眠りかけたところで管が爆発して起こされる。その繰り返し。残念ながら最後まで聴き通せなかった。カラヤン先生の音楽は元来、シャープでスピーディでカッコイイ。長いフレージングをフォルムとして削り出し、まるでデザインモックアップのように目から鼻に抜けるようなモダンな感覚だ。単音による主題の旋律の美しさに裏付けられた曲では大いにその魅力を発揮する。しかし、ブルックナーのような、一見抽象的だが、実は厳密な調性と、綿密な和音と対位法の組み合わせによって構築された複層的音楽においては逆効果になってしまうのだと知った。