2012年11月17日土曜日

Bruckner Sym Nr.9/ サイモン・ラトル&BPO(2012)




よくもまあ、音楽にこれだけ集中耽溺できるのだと、自分に対して改めて感心、半ば呆れています。
かといって、論理的、系統的、分析的に聴いている訳ではないのです。それが時折コンプレックスでもあり。

同じ音楽を聴いた時「これは〇〇の情景だね」とか「これは提示だ、否定だ」とか、音楽好きの友人知人がすぐさま解釈指摘しているのを聞くと、僕は「え?え?」となってしまう。

ベートーベンの第九の第4楽章で、あの有名な歓喜の歌の主題が最初に出てくるところがあります。
それが、コントラバスによって「否定」されるところがあります。

これを「否定」とすぐさま感じ取るためには、楽曲の解説を勉強するか、ドイツ語の「Nein」を知らないといけない。
実際、コントラバスは「ナーイン!」と言ってるのですから。
すごいよベートーヴェン。。。
でも僕はこれを感じ取る感性には乏しい。

あの部分は僕にとっては長いこと余計な音でしかなかった。
そのうち「起きろ!目を覚まして歌を歌い出すのだ」という声聞こえるようになって。。。
「おーいっ!」です。


子供の頃、一番大好きな交響曲は、ベートーベンの6番「田園」でした。これは標題音楽で、非常にわかり易かった。音楽によって描写しようとしている情景がはっきりしているのです。
けれども大人になるに連れて、標題音楽はだんだんニガテになってきました。

標題と言えばRシュトラウスやムソルグスキーなどは、最初はイメージしやすいのでとっつきやすいのですが、飽きも早い。
それで次第に「作曲家の意図や背景」を具体的に感じるのが難しい、つまり、どうとでも取れる音楽の方が好きになっていきました。


まあ、どうとでも取れる音楽というのは実際はそうはないんだけど、純粋に音が人間の感情や思考、魂、精神性、身体に与える影響というものが、音楽にはある。
優れた音楽というのは、具体的な描写を意図で縛られた音楽よりも、作者自身の意図を超えたところに、音楽の神がかった力というものが存在し、作曲者は神の代弁をしている過ぎないと、僕は思うのです。


JAZZでも、ソウルやブルース、デキシー、ビーバップの影響が強いものより、どちらかというと無調気味で即興的で無機質な演奏の方が好きです。
かといってフリージャズが好きなわけでもないんだけど。

やっぱり音楽というものには「第一の意図」はどうしても必要で、その意図を離れてこそ音楽なのです。意図が全く存在しない音楽は音楽ではなく、単なる雑音である。

さてそういった意味でも、ラトルとBPOの今年録音のブルックナー9番は僕にとってとても意味のある特別なブル9です。

ブルックナーは、この9番を完成させる前に亡くなってしまいました。それで9番は第3楽章までしか存在しません。ところがこのラトル指揮の9番は第4楽章まであります。

それは、ブルックナー研究者による、散逸した草稿からの復元という試みによるものです。
時代を追うごとに、実は第4楽章は、かなりのところまで書き上げられつつあったということが分かっています。彼は死の日の朝までこの第4楽章の推敲を重ねていたそうです。ところがその日の午後に亡くなってしまう。

そして死の直後に、弔問に訪れた知人や市民達が、完成しつつあった第4楽章の草稿を記念品とばかりに勝手に持ち去ってしまう。。。
痛々しい話です。

その草稿が、最近少しずつ見つかってはいるようなのです。

第4楽章の復元と演奏に賛否はあります。

もちろん第3楽章のアダージョで完結なのだという方が主流です。
確かに最後のワグナーチューバのコーダは、彼が死を迎えた時の情景、永遠を表している様な解釈の方が自然かもしれません。

しかし僕にとっては、この第3楽章が終章とはとても思えず、ずっと何かすっきりしない違和感を感じていました。
少なくともブルックナーの他の交響曲を聴く限り、これはやはり未完成でしょうと。

シューベルトの「未完成」は、あれはあれでもうお腹いっぱいなんですが、ブルックナーの9番はかなり違う。

まだ足りないんです。

作者の意図も然ることながら、それを超えたところに、ブルックナーの芸術はある。
それは、交響曲第0番から綿々と続く。それにはれっきとした法則がある。

第3楽章で主題が日常から徐々に壮大な宇宙へとステージを変えていき、第4楽章の途中で突然雲が切り開かれるようにして目の前が明るく広がる。

この9番の言わんとしているものも同じだ。
第3楽章では、聴く者はまだ人間と神の間で煩悶しているような状態だ。それが次第に神に導かれて視野が広くなっていく。
そして、最終的な解決はあのコーダのフェルマータによって導かれ、第4楽章に引き継がれるはずだ。
第3楽章のあれはまだ大団円ではない。神の救いではない。和解でもない。
あれはまだ神の声の前触れでしかない。

「さあ、いよいよだ」

そう言ってる。
その感覚的解釈が、僕の中に存在するのです。
だから続きをどうしても聴きたい気持ちに駆られるのです。

これは決して学説的に正しい解釈の態度ではないのかもしれませんが、ブルックナーの芸術の素晴らしさは、音楽が非常に普遍的な音が並んでいながら、総合された音は個々の精神一つ一つに対応してしまうというところにある。
まさに「神」と見事な相似性を持っている。
そういう意味で、学説や作者の意図が、単なる「第一の意図」で済まされてしまうほどの壮大さがある。

これまでも、草稿を断片的につなぎ合わせて演奏している例はあるのですが、ラトルのこの復元版(SPCM2012年補筆完成版)は、余計な創作を極力排除し、なるべくブルックナーならこう完成させたであろうという「法則」を見つけ出して草稿を丁寧に結びつけて復元したものだと言われています。

この第4楽章が完璧なものであるとは誰も思ってはいないでしょう。これからもどんどん分析は正確さを増し、第4楽章は作曲者の第一の意図に近くなっていくでしょう。

今は完全ではないにしても、このバージョンをラトルがベルリン・フィルが、今の空気の中で(研究者としてではなく演奏芸術家として)解釈し演奏するということ自体が意味の深い事で、この試みは非常にうまく行っていると断言できます。

感想は…

まさに、あるべき最終章だと思います。
ラトルはこれまであまり好きな指揮者ではありませんでしたが
心から「ありがとう」と言いたいです。


0 件のコメント:

コメントを投稿