チャイコフスキー/バイオリン協奏曲/ユリアフィッシャー&ロシア国立管弦楽団(2006)
チャイコフスキーはおしなべて、その旋律も彼の感受性もどこか「乙女」のにおいがする。
なんだけど、聴く姿を想像出来るのはグラマラスで経験豊かな女性。そのギャップは一体どこからくるのだろう。
メランコリックで、劇的で視覚的。喜怒哀楽。純化された人生の記憶。
ユリアフィッシャーの演奏がそうさせるのか、技巧の披露を超えたところにある彼女の表現力。
天才ハイフェッツ先生の演奏↓
欲しいなあこのレコード
http://youtu.be/KimuMGtYQFY
2014年1月15日水曜日
2014年1月14日火曜日
マーラー9番雑感
マーラー9番を聴く度に思うのは、後半よりむしろ前半の方が陰鬱としてくるということ。特に第1楽章。第4楽章が死に至る云々という解説解釈が当たり前になっているが、むしろ僕は第4楽章には清々しささえ感じる。マーラーのやっかいなところは、全てのフレーズにおいてマーラーの明確な意識化された意図が入っているということ。しかも本人はそれについて殆ど言及などしていない。「音楽で判断しろ」というのみ。説明がないにもかかわらず、解釈には正解がある(と作曲家本人は主張する)。もはや深層心理の謎解きの世界だ。マーラーの音楽を感情移入して聴くのが難しい原因はその辺にあるような気がする。まさに彼と全く同じ感情と心理状態にならないと分からない世界がある。
メンタリティがマーラーと全く違う指揮者、例えばクナッパーツブッシュやカラヤン(晩年はバーンスタインへの対抗か少しやったが解釈はメタメタだ)が、全くマーラーを演奏しなかったのと対照的に、「同じ民族として」「他人とは思えない」と言ったバーンスタインは、ユダヤ人指揮者として生涯をかけて演奏した。
一方ではマーラーはワグナー作品の指揮者の第一人者でもある。興味深い対比だ。
僕は個人的にはマーラーが「ユダヤ人」としての括りのメンタリティで交響曲を作曲していたことなど殆どないか、ごく限られた時期にあったに過ぎないと思っている。
むしろ彼はかなりのコスモポリタンであったように思う。国家や宗教、民族というアイデンティというのは、一見重要で強固で根の深いものののように思えるが、実はそのナンセンスを彼はいつも哂っている気がする。
仮にマーラーが差別故にコスモポリタンにならざるを得なかったとしても、マーラーがその時代にコスモポリタンとそて生きたことはとても重要だ。クリムトやピカソなど、全ての芸術家がコスモポリタンであることを要求される時代を作ったとさえ言える。
20世紀初頭の芸術はすべからく民族性や国家、伝統というものを超越したところに立って始まっている。それは政治や民衆が民族主義や国家主義に染まってゆくのとは対照的に。
そういう視点で、デカダンに、コスモポリタニズム的にマーラーを聴くと、なんとなく見えてくるもの「も」ある。
(FB2012.9.7)
(FB2012.9.7)
2013年12月20日金曜日
David bowie / The next day (2013)
ファンの層が「やっぱりデヴィッドボウイはLPで聴きた
CDにアナログレコードがボーナスで付いてくるのではな
アナログレコードの方は、ロック/ポップのレコードにあ
昔の曲のリマスター愛聴盤とかじゃない、新譜です。
そんな贅沢仕様に負けない…というか、それを裏付けると
最初iTunesで購入したのですが、これはネットで一
だからこそ余計に重量盤の重みを有難く感じるのですが、
いい絵にいい額縁が必要なように、いい音楽にもいい額縁
それにしてもデヴィッドボウイほど年齢と共に音楽が熟成
「Hours」以降のボウイはほんとに大好きです。
こんなじじーになりたい!
Where are we now?
(ベーシストにトニーレビン)
http://youtu.be/
2013年2月11日月曜日
ブルックナー交響曲第8番(クレンペラー指揮)
ブルックナー交響曲第8番・オットー・クレンペラー指揮・ニューフィルハーモニー管弦楽団(1970)
またブル8です。
よく飽きないなあと自分でも思います。
あ、ちなみにブル8というのは、ブルックナーの交響曲第8番という意味です。
ブルックナーは、全部で10曲の交響曲を作っています。
この8番は、彼の交響曲の最高傑作と言われています。
今朝、聴くものがないなあと思いながら棚をぼんやり見つめていて「あれ?クレンペラー指揮のブル8だ!」って。。。
存在をすっかり忘れてました。
この人の指揮の演奏はちょっと独特です。
ベートーヴェンにしてもマーラーにしても。
最近は、棚に入ってるLPやCDを把握しきれなくなってきてます。
ロックやジャズはそれでもなんとなく覚えてるんだけど、クラシックはもうかなりダメです。
大した数ではないのです。
ちゃんと数えた訳ではないのですが全部かき集めても1000枚はないと思います。
…たぶん。
いや、あるのかな…。
データベースで管理しようとしてはいるのですが、半分も登録できてません。
こうして写真撮ってネットにアップするのにも疲れてきました。
2013年1月14日月曜日
Sorcerer/Mils Davis(1967)
Sorcerer/Mils Davis(1967)
NEFERTITIの前に出た、1960年代マイルス第二黄金期クインテット四部作のひとつ。このアルバムをマイルスの頂点と見なす人も多く、マイルスとその仲間たちはこの辺で完全にJAZZという括りを超えちゃってます。
このアルバムに関して何が凄いかというと、どこからどう聴いてもインプロ(即興)ありきの曲だろうという曲が、実は厳密なスコアがあって、全パートのフレーズを譜面化しながらレコーディングしたという話。本当か伝説か…もちろんアドリブも残されているようですが、どこからどこまでがアドリブかはもはや判別できません。
完全に「再生芸術」を目指した現代音楽と化しています。
確かにジャズならではのダイナミックなスリルは失われているところもありますが、その分ものすごく知的で、奥の深い演奏になってます。まるでバルトークを聴いてるような錯覚にさえ陥るのです。
いわゆるビバップをJAZZと思って聴きたい人にはあんまりおすすめできるアルバムとは言えませんが、正直に言って、マイルスと共に50年代のハード・バップ期を過ごしてきた他のJAZZミュージシャン達の、同時期(60年代後期)の演奏には結構聴くに耐えないものも多く、どれだけマイルスが研究と実験を重ねて進化してきたミュージシャンなのかを改めて思い知らされる一枚です。
しかし聴いていても容易に想像はつくのですが、マイルスとその仲間たちはこのあと本当にやることがなくなってしまい、NEFERTITIを最後に解散してしまいます。
Sorcerer
http://youtu.be/z-sMwUiZxVo
2013年1月2日水曜日
NEFERTITI/MilesDavis(1967)
「JAZZを聴こう!」と思い立ってからかれこれ10数年が経とうとしています。
未だにJAZZを理解して聴いているとは言えません。
理由のの一つは、JAZZの典型的な形態である「ビバップ」スタイルにシンパシーがないからだと思います。
原曲が分からないほど崩してしまったり、ソロのたびに拍手をしたり、よく分からない世界です。
それでも、マイルスに関しては彼の演奏を何度も聴き返しているうちに、段々彼が他のJAZZミュージシャンとは全く違う構造と特徴を持つ音楽家であることが理解できるようになってきました。
だからマイルスは大好きです。
もしもJAZZ=マイルスなら、僕はjAZZを理解して聴いている事になると思います。
現時点での僕の理解は、モダンジャズは「マイルスと、それ以外」です。
でも他とマイルスがどう違うのか?と聞かれると、分からないんだなあ。
「NEFERTITI」は1967年に発表された、マイルスとその仲間たちの黄金期の最後のアルバムです。
それまでのジャズのお決まりだったコード進行によるハードバップから解放され、インプロヴィゼイション(即興)によるフレーズの重なりで音楽を作るモード・ジャズを確立したマイルスが最終的にたどり着いた境地は、厳密な演奏進行をキープしながらノーコードでインプロヴァイズしてゆくという、並大抵のミュージシャンが到達することのできない世界でした。
毎日聴けるほど馴染みやすくはないのですが、音楽の進化としてはある種完璧なものを感じます。
このアルバムを最後に彼の黄金期のクインテットは解散し、それぞれがソロで大活躍を始めます。
同時に、いわゆる我々が普通の感覚で「JAZZ」と呼ぶ音楽が最先端だった時代が終焉し、フュージョンやクロスオーバーという音楽ジャンルに移行し、より洗練された新しい音楽が生まれていきます。マイルスにとってもこのアルバムがアコースティックの楽器だけで録音した最後のアルバムになりました。
Nefertiti
Youtubeのmp3ではかなり音がしょぼくなって情報しか伝わって来ませんが、レコードやCDで聴くと天才ミュージシャン達の気迫がビシビシと伝わってきます。この曲はこのアルバムの一曲目ですが、アルバムを聴き進めて行くと、実はこの曲は小手調べに過ぎなかった事に気づくことになります。
http://youtu.be/NcRg-duiWgQ
2012年12月5日水曜日
シェーンベルク「浄夜」
シェーンベルク/浄夜/ブーレーズ&ドメーヌミュージカルアンサンブル(1975)
結局のところ、この人は「調性音楽をぶっ壊した」人として歴史に名を残すのでしょう。
しかし「浄夜」は無調性ではありません。そしてリヒャルトデーメルという詩人の詩を題材にした標題音楽です。
シェーンベルクは20世紀の人ですが、この曲はギリギリ19世紀の作品です。
これを聴けば彼が無調性音楽でいたずらにデタラメをやっていたのではないことがわかります。
題材となった詩も素晴らしい。訳詞によってかなり内容の解釈に差は出るのですが、僕の一番好きな訳はとても直訳的なこのレコードのライナーノーツの訳です。他のサイトからコピペすれば良かったのでしょうけれど、変に文学的な意訳よりも、直訳の方がこの詩の本質をよく表しているので、頑張って書きます。
浄夜 (リヒャルト・デーメル)
枯れて冷たい林の間二人が歩いている
月が二人を照らし、彼らはそれを見上げる
高い樫の木の黒い先端が空にそびえ、その上に月が走る
空の輝きを曇らす雲は一つもない
女の声が話す
私は身ごもっていますが、あなたの子供ではない
私は罪を感じてあなたと歩いています
私は私自身をひどく辱めてしまった
私は幸福な未来が信じられなかったが
充実した生命と母としての幸福と義務に
強い憧れを感じていました
そして私はわななきながら、見知らぬ男に身を任せ
それを祝福さえしてしまった
今や生命が私にしかえしをして
今私はあなたに出会ったのです
女はおぼつかない足取りで歩み、空を見上げる
月とともに歩み
彼女の暗い眼差しは光のなかに溶ける
男の声が話す
あなたの身ごもっている子供は
あなたの魂の重荷ではない
世界がどんなに明るく輝いているか、ごらんなさい
すべてのまわりに輝きがある
私たちは冷たい海の上をただよっているが
私からあなたに、そしてあなたから私に
暖かさが直接伝わってくる
それは他人の子供を清め
あなたはその子供を私のために生むでしょう
あなたは私に輝きをもたらした
あなたは私を子ども自身にしてしまった
彼は女の腰をつよくだきしめ
彼らの呼吸は風のなかで口付けを交わす
二人は清められた明るい夜に歩いてゆく
ズービン・メータ&VPOの浄夜
http://youtu.be/B-ii8JMPUxc
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