マーラー9番を聴く度に思うのは、後半よりむしろ前半の方が陰鬱としてくるということ。特に第1楽章。第4楽章が死に至る云々という解説解釈が当たり前になっているが、むしろ僕は第4楽章には清々しささえ感じる。
マーラーのやっかいなところは、全てのフレーズにおいてマーラーの明確な意識化された意図が入っているということ。しかも本人はそれについて殆ど言及などしていない。「音楽で判断しろ」というのみ。説明がないにもかかわらず、解釈には正解がある(と作曲家本人は主張する)。もはや深層心理の謎解きの世界だ。マーラーの音楽を感情移入して聴くのが難しい原因はその辺にあるような気がする。まさに彼と全く同じ感情と心理状態にならないと分からない世界がある。
メンタリティがマーラーと全く違う指揮者、例えばクナッパーツブッシュやカラヤン(晩年はバーンスタインへの対抗か少しやったが解釈はメタメタだ)が、全くマーラーを演奏しなかったのと対照的に、「同じ民族として」「他人とは思えない」と言ったバーンスタインは、ユダヤ人指揮者として生涯をかけて演奏した。
一方ではマーラーはワグナー作品の指揮者の第一人者でもある。興味深い対比だ。
僕は個人的にはマーラーが「ユダヤ人」としての括りのメンタリティで交響曲を作曲していたことなど殆どないか、ごく限られた時期にあったに過ぎないと思っている。
むしろ彼はかなりのコスモポリタンであったように思う。国家や宗教、民族というアイデンティというのは、一見重要で強固で根の深いものののように思えるが、実はそのナンセンスを彼はいつも哂っている気がする。
仮にマーラーが差別故にコスモポリタンにならざるを得なかったとしても、マーラーがその時代にコスモポリタンとそて生きたことはとても重要だ。クリムトやピカソなど、全ての芸術家がコスモポリタンであることを要求される時代を作ったとさえ言える。
20世紀初頭の芸術はすべからく民族性や国家、伝統というものを超越したところに立って始まっている。それは政治や民衆が民族主義や国家主義に染まってゆくのとは対照的に。
そういう視点で、デカダンに、コスモポリタニズム的にマーラーを聴くと、なんとなく見えてくるもの「も」ある。
(FB2012.9.7)
(FB2012.9.7)
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