2014年1月21日火曜日

David Bowie / 'hours... (1999)



デヴィッド・ボウイが、久しぶりにヒットチャートにカムバックしたアルバム。
それまで活動していなかったわけでもアルバムが売れてなかったわけでもないのですが、シングル(Thursday's child)が日本の洋楽チャートでベスト10インしたのは、おそらく1984年のBlue Jean以来な気がします(1993年のBlack tie white noiseのJump they sayに記憶もあるのでもしかすると勘違いかもしれませんが)

いずれにしても日本ではこのアルバムからの「Thursday's child」が、デヴィッドボウイを久しぶりに頻繁にPVの中で見る姿となり、年月の経過に感慨深けなファンも多かったのでした。

アルバムジャケットは昔懐かしいレンチキュラー写真(ホログラム)になっていて、ボウイの手が動いたりします。意味はよくわかりません。

「Thursday's child」(PV)
http://youtu.be/8S227FFNwl8

2014年1月19日日曜日

David Bowie / Reality (2003)


Heathenから1年ちょっとで出たアルバム。
この頃アメリカは暗かった。
デヴィッドボウイのこの続けざまに出された2枚のアルバムも、その暗いアメリカをテーマに作られたようなところがあって、でも本作はさらに内省的というか、アメリカンなシンプルとは常に一線を引いた俯瞰的なデヴィッドボウイの世界観が本領発揮、曲によってはちょっと70年代のベルリン時代っぽい感じのもあります。


New Killer Star(Live)
http://youtu.be/8d-4-ySCiv0
アルバムの1曲目。日本で言えば六本木ヒルズの毛利庭園あたりでライブしてる感じかなあ…いやもう少しオフィシャルか。丸ビルの裏手とか。ほぼ10年前の映像。

2014年1月18日土曜日

David Bowie/Heathen(2002)



もしコピーバンドをやっていたら、絶対このHeathenから半分以上はピックアップしてると思います。ロックしてる!カッコいい!そして歌詞が素晴らしい!

デヴィッド・ボウイとの出会いはとあるバンドでHeroesやJoe the Lionのロバート・フリップの様に弾いてくれと依頼されて聴き込んだのがきっかけです。
それまでチャイナ・ガールとかレッツダンスとかFAME以外これっぽっちも聴いたことがなくて、正直ギターソロもないし声はヒョロヒョロだしよくわかんなかったのですが、ロバート・フリップは好きだったしその荒々しいギターのニュアンスを真似しているうちに少しずつハマっていきました。

デヴィッド・ボウイは歌詞を理解して聴く音楽だと思います。
歌詞の世界の深遠さ、芸術性はちょっと言葉に表せない。
自分が歌詞作りで悩んでた時期に出会いたかったなあと思います。

このアルバムの中のAfraidという小品は、一見なんてことのない若者特有の不安について歌ってるように見えますが、よく読んでいくとリアルタイムのデヴィッド・ボウイ自身、あるいは似たような年頃の中年の内省的な言葉じゃないかと薄々わかってくる。そういう歌詞に、今だにたくさん出会える(リアルタイムで活躍している往年の)アーティストです。
…いやあ、もうそれ以前にむちゃくちゃカッコいい!ロックバンドとして!


Afraid (ライブ)
http://youtu.be/QKxcpuOhVl0

「アフレイド」
もっと頭が良かったらいいのに
僕は海辺で途方にくれた
もっと背が高かったら良かったのに
それは本当に僕にとって大切なこと

でも僕は未来に向かっている
孤独じゃないと信じてる
ビートルズを信じてる
僕の小さな魂が成長したと信じてる
そして僕は今でも怖がってる
そう、今だに怖いんだ

一人でいることが怖いんだ
一人で生きていくことが

何が僕の人生を素晴らしくしてくれるのか?
何が僕を嫌な気分にさせるのか?

僕はかつて大きな海の上で目が覚めた
雲の上を歩いたものだ

もし僕が薬を信じることができたなら
もし僕が作り笑いができるなら
もし僕がテレビに出られたら
もし誰もいない通りを歩けたら
僕は怖がらないんだろう
そう、怖くない
怖がらない
決して


2014年1月15日水曜日

チャイコフスキーピアノ協奏曲第一番/ウラジミル・アシュケナージ/ロリン・マゼール指揮ロンドン響(1963)/ LP




超有名な冒頭の管による主題から始まる雄大でエネルギーに溢れたピアノコンチェルト。
クラシックファンやピアニストにとっては割と有名な録音で、若きアシュケナージと野心溢れるマゼールによる、現代のピアニストと聴き比べても全く遜色ないモダンで粒の揃った美しい演奏です。
再プレスやCD化はもちろん今だにSACDでも復刻版が出ています。

アシュケナージはこの時26歳でチャイコフスキーコンクールの覇者になったばかりです。なのにこの曲を苦手としていたらしく、これ以降録音は見当たりません。それでもってその後しばらくして彼は指揮者として有名になります。YouTubeでも彼のチャイコは探せないのが残念です。

若い亡命前のアシュケナージのテクニックと表現力は本当に度肝を抜かれるというか、なんでこれで苦手だったんだろう?というような素晴らしい演奏です。
特に第三楽章の畳み掛けは彼の得意とするショパンやラフマニノフに通じる技巧と迫力の両方を併せ持った希有な演奏です。


チャイコフスキー・コンクール(1962)の時の演奏(3楽章)
http://youtu.be/k9eMRuDIR5E

キーシンと小澤の1995年の演奏(全楽章)
http://youtu.be/OnWDTqJCXhw

チャイコフスキーバイオリン協奏曲

チャイコフスキー/バイオリン協奏曲/ユリアフィッシャー&ロシア国立管弦楽団(2006)

チャイコフスキーはおしなべて、その旋律も彼の感受性もどこか「乙女」のにおいがする。


なんだけど、聴く姿を想像出来るのはグラマラスで経験豊かな女性。そのギャップは一体どこからくるのだろう。


メランコリックで、劇的で視覚的。喜怒哀楽。純化された人生の記憶。

ユリアフィッシャーの演奏がそうさせるのか、技巧の披露を超えたところにある彼女の表現力。



天才ハイフェッツ先生の演奏↓
欲しいなあこのレコード
http://youtu.be/KimuMGtYQFY

2014年1月14日火曜日

マーラー9番雑感

マーラー9番を聴く度に思うのは、後半よりむしろ前半の方が陰鬱としてくるということ。特に第1楽章。第4楽章が死に至る云々という解説解釈が当たり前になっているが、むしろ僕は第4楽章には清々しささえ感じる。

マーラーのやっかいなところは、全てのフレーズにおいてマーラーの明確な意識化された意図が入っているということ。しかも本人はそれについて殆ど言及などしていない。「音楽で判断しろ」というのみ。説明がないにもかかわらず、解釈には正解がある(と作曲家本人は主張する)。もはや深層心理の謎解きの世界だ。マーラーの音楽を感情移入して聴くのが難しい原因はその辺にあるような気がする。まさに彼と全く同じ感情と心理状態にならないと分からない世界がある。

メンタリティがマーラーと全く違う指揮者、例えばクナッパーツブッシュやカラヤン(晩年はバーンスタインへの対抗か少しやったが解釈はメタメタだ)が、全くマーラーを演奏しなかったのと対照的に、「同じ民族として」「他人とは思えない」と言ったバーンスタインは、ユダヤ人指揮者として生涯をかけて演奏した。

一方ではマーラーはワグナー作品の指揮者の第一人者でもある。興味深い対比だ。

僕は個人的にはマーラーが「ユダヤ人」としての括りのメンタリティで交響曲を作曲していたことなど殆どないか、ごく限られた時期にあったに過ぎないと思っている。

むしろ彼はかなりのコスモポリタンであったように思う。国家や宗教、民族というアイデンティというのは、一見重要で強固で根の深いものののように思えるが、実はそのナンセンスを彼はいつも哂っている気がする。

仮にマーラーが差別故にコスモポリタンにならざるを得なかったとしても、マーラーがその時代にコスモポリタンとそて生きたことはとても重要だ。クリムトやピカソなど、全ての芸術家がコスモポリタンであることを要求される時代を作ったとさえ言える。

20世紀初頭の芸術はすべからく民族性や国家、伝統というものを超越したところに立って始まっている。それは政治や民衆が民族主義や国家主義に染まってゆくのとは対照的に。

そういう視点で、デカダンに、コスモポリタニズム的にマーラーを聴くと、なんとなく見えてくるもの「も」ある。
(FB2012.9.7)