ブルックナー交響曲第6番・ヨッフム&ドレスデン国立管弦楽団・EMI・1978年録音・LP
ブルックナーの交響曲の主題は、ベートーベンやブラームスのように鼻歌で「こういう曲だよ」という風に人に伝えられるフレーズが一つもないと言っていいかもしれない。
調性が壊れかかった時代のマーラーでさえ、歌えるのがあるというのに。
そして、0番から(ブルックナーには、0番とか00番というおかしな番号のついた交響曲がある)9番まで、ブルックナーの交響曲はどれも似た様なフレーズ、似た様な始まり、似たような間、似た様な展開を経て、似たような終わり方をする。他の曲で使ったはずの主題や動機が、別の交響曲でもしれっとして出てくる。
そして究極的ダメ押しのように、どれもとても長い。とにかく長い。1時間の交響曲なんてまだ短い方だ。冗長といってもいい。
ブルックナーの同輩(ライバル)だったブラームスはこの冗長さを「交響的大蛇」とまで称して批判している。
それなのにどういうわけか、ブルックナーの交響曲は、聴きたくなる。くせになる。
ブルックナーが強く影響を受けたの直接の先輩作曲家は、あの有名なワグナー。
ワーグナーはあんなにキャッチーなのに、なぜ。。。というほど掴みどころがない。
ブルックナーの交響曲は、誰のどの交響曲とも似ていない。
というか、日常的にイメージする交響曲とは、どうも聴く観点、概念が違うように思える。
音の洪水の中で、1時間以上に渡って、とにかく瞑想を強いられると言ってもいい。
それと、もうひとつ、どんな指揮者が振っても、不思議な「間」がある。
これは「ブルックナー休止」と呼ばれるものらしいのだが、それまでだらだら続いていた音楽が、突然止まって、全然違うフレーズが始まったりする。
この体験は一体なんだろう。禅の世界と西洋の妖精の世界を行ったり来たりするような感覚。
マーラーのような恣意的な情景を強要されることもなければ、ベートーベンのように熱情を喚起されることも、チャイコフスキーのようにメランコリーを想起されることもない。
とにかく音の洪水があり、それは延々と続き、情緒性を完全に取り払い、内観の世界へと誘う。
ブルックナーは、プロの音楽家にとても人気のある作曲家で、指揮者を目指す人なら、ブルックナーを必ず勉強しなければならないとまで言われる。
もっとも我々素人リスナーの場合だと、ブルックナーを演目に掲げられてもおそらくチケットを買うのに相当躊躇するだろう。
いわゆる「ミュージシャンズ・ミュージシャン」と呼ばれるべき作曲家の、最初の人ではないだろうか。
彼の音楽性について書かれた評論には傑作なものが多いが、その中で、僕がクラシックの評論を読んで生まれて初めて爆笑してしまったものがあるのでひとつ紹介したい。
引用〜
『ブルックナー自身は、たとえば「葬送の音楽」として、あるいは「町の庁舎から、一日の始まりを告げるホルンが鳴ります」(中略)として音楽をかいていたのだが、音楽がひとたび完成されてしまうと、それはブルックナーの意図したものとは、まるで無関係になってしまう。(中略)彼の音楽は、一聴すれば明らかなように、「葬送の音楽」ではないし、「庁舎のラッパ」などでもない。同時にそれはいわゆる悲しい音楽とか、嬉しい音楽というようなものでもない。(中略)となると、ブルックナー自身は作品の後方に取り残されてしまう。作者としての権利を主張するため、夥しいまでの「自作解説」をおこなうのだが、結局は存在し始めた音楽の後方で、なすすべがないままに、彼はとどまざるを得ないのである。その時の彼の姿は、ほとんど手ぶらの状態で、なにやらとても奇妙だ。』〜引用(吉井亜彦著名番鑑定百科より)
まさにブルックナーの音楽の世界を端的に表していると思う。普通は作曲家が何を思ってこのフレーズを作ったのかということについて、音楽家はとても神経質になる。聴き手もある程度知っていた方が楽しめる。
しかもたいていの作曲家の場合、そんな事はあんまり記録に残してない。だからみんな苦労して解釈するし、解説本や評論が成り立つ。
けれどもブルックナーの曲は、そういうのとは全く逆で、本人が書いた、なんだかよく分からない解釈説明やら改訂版やらが溢れている。
にも関わらず、みんなあまり真剣に再現してないような気がする。
「だって、そうならないんだもん。」
だからなんだか演奏する方は「そんなのどっちでもいいんじゃない?」的なノリで、自分なりに楽譜と純粋に格闘することを楽しんでいるように聴こえる。
聴いている方も、自分勝手な世界観や妄想に浸りながら、ブルックナーの音楽を楽しんでいる。
作り手、弾き手、聴き手が、それぞれとんちんかんな方向を向いていても、聴いた後にはちゃんと拍手喝采できるという、不思議でおかしな音楽なのだ。
ブルックナーを知らなくてもちっとも不幸だとは思わないけれど、ブルックナーの音楽を聴けるという事に、なんだか笑っちゃうような幸せを感じてしまうのだ。
交響曲第6番は、そんなブルックナーの中でも異色の部類に入ると言われている。ブルックナーらしくないとさえ言う人もいる。もっともそんなことはブルックナーを知っている人の間で言われていると言われているだけで、普通の感覚で言えば0番も4番も6番も、一部分を切り取って聴けば同じ曲に聴こえる。それが普通の感覚だろう。(いやホントはそれぞれ素晴らしい個性を放っている。。。んだけど、わかりにくい)
言い切ってしまえば、第6番は非常に素晴らしい展開があちこちに散りばめられている珠玉の作品だ。
この6番と5番は、ブルックナー自身がほとんど改訂に手を入れてないのだそうだ。ブルックナーという人は、どうも自信がない人だったようで、支持者や指揮者から「ここを直したほうがいい」と言われると、「そうかな」と言っては言われるがままに手直しをしていたらしい。普通芸術家という自覚を持った人はそんなことはしないと思うのだが。
いずれにしても、この6番は全く手直しがされていない状態で現代に至る珍しい作品だ。
そして緩急に乏しいブルックナーの交響曲にあって、この6番はメリハリの効いたフレーズが多い。また「ブルックナー休止」と呼ばれているおかしな沈黙も、比較的少ない。要するに、例えブルックナーの聴き方を知らなくても、眠らずに聴ける曲の一つなのだ。
ブルックナーというと「4番ロマンティック」を挙げる人が多い。わかりやすい曲調や情景を描写したと思われる表題的主題が多いからなんだろうと思う。
僕もブルックナーを初めて聴いたのは4番だった。でも、演奏時間の短さ、展開の速さ、手際の良さで言えば、また表題的(?)主題についての分かりやすさという意味で選ぶなら、この6番の方が適格じゃないかなと僕は思う。
この6番を先に聴いてから、次に例えば7番を聴いて、その壮大さ、ブルックナーのドツボにはまってもいいのではないかと僕は思っている。
5番までの瞑想的(妄想的)世界観と、7番からの気宇壮大な宇宙的ドラマの中間にあって、ちょうど両方の面白さを持っていると思う。
とは言え、聴き方は自由だ。ブルックナーの場合、「この音が何を表しているのか」なんてことは知らなくていい。自分の心情や体験に合わせて、「こういう場面なんじゃないかな」とか「こういう気持ちなんじゃないかな」とか、自分を中心に世界観の妄想に入り込んでいい。絶対音楽が行き着く一つの境地みたいなものを、覗き見することができる。
そうでもしないと、いろいろ知識をつめ込まないとよく分からない音楽だし。
Youtube
ヨッフムが見つからなかったので、クーベリックで。これも素晴らしい。
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