2012年4月27日金曜日

大フーガ ベートーヴェン弦楽四重奏曲第13番



ベートーヴェン弦楽四重奏曲第13番変ロ長調op.130 大フーガ(op.133)付き
ラサール弦楽四重奏団・グラモフォン・1972年録音・LP

ベートーヴェンには、16曲の弦楽四重奏曲がある。その中で、特に傑作と呼ばれているものが何曲かあり、最後期の13番(作品130と133)は演奏者にとっても鑑賞者にとっても難易度も芸術性も特に高い曲として知られている。

その理由の一つに、最終楽章の存在がある。初演当時、あまりの長さ(15分ぐらいある)と難解さに不評が過ぎ、あの頑固一徹のベートーヴェンでさえ、周囲の指摘を受けて、最終楽章を平易な曲に書きなおし差し替えたほどだ。

それでその後、この最終楽章は13番から切り離され、「大フーガ」と呼ばれるようになった。
しかし現在、13番は最終楽章を「大フーガ」付きで演奏するものと、平易な第6楽章付きで演奏するものとが並立することになっている。

「フーガ」というのは、対位法(それぞれの声部が独立した曲や旋律を奏でている様に聴こえるが、全体で聴くと和音が成立して聴こえる曲の形式)で書かれた曲の一種で、簡単に言えば、最初にひとつのフレーズが独奏または単音で提示され、それを別の楽器(声部)が次々に度数を変えたり変奏しながら追いかけ演奏してゆく形式の曲だ。J.S.バッハにはこのフーガ形式の名曲がたくさんある。


バッハの超有名なオルガン曲のフーガ・ト短調が、とてもわかりやすい。最初に主旋律の提示があって、後から追いかけておんなじフレーズが被る。
それが前の主旋律と矛盾せずに「対位」しながら曲が進んでいく。



輪唱に似ているけれど、輪唱は全ての声部が常に同じフレーズを追いかけるのに対し、フーガは途中で旋律が変奏曲のように変化していったり、度数やリズムも変わったりする。似た様なものに「カノン」という形式がある。より輪唱に近いものを「カノン」、もっと自由で変奏曲に近いものを「フーガ」と言えば、大雑把だけれど覚えやすいかもしれない。

端的に言って、この大フーガは当時の(今もかもしれない)音楽オタクのための究極の曲だ。
ベートーヴェンは、パトロンである貴族や商人が主催する小さな室内楽の演奏会用に、四重奏曲をたくさん書いているのだけれど、そのパトロンであった貴族・商人たちは、音楽や芸術に造詣が深い人達が多く、いわゆる音楽マニアの人たちだ。

モーツァルトの時代までのパトロンは王侯貴族で、主に「食事用」とか「催事用」とか、そういう実用音楽を必要としていた人たちだ。だから耳触りがとてもいい音楽が多い。しかしベートーヴェンの時代になると、パトロンはより市民に近い人達となり、純粋に「芸術」を味わうために全く違う趣で音楽を聴き、芸術家達に援助した。
だからベートーヴェンも自分の芸術的挑戦や才能を遺憾なく発揮できた。
思う存分その前衛性を発揮し、その究極として生まれたのが、この13番の最終楽章として書かれた大フーガだ。



で、ベートーベンのこの大フーガは、最初の提示部もなんだかとっつきにくい上に、展開してゆくと、もう本当に何が起きているのか、分からなくなる。初めて聴いた時(スメタナ四重奏楽団の録音)には、正直最後まで聴くことができなかった。

まず主題の旋律が旋律としてつかめない。そして一度この主題を見失うとどこまで行っても主題の追いかけっこが見えない。見えないどころか、音自体が混沌としてくる。

「これのどこがフーガなんだ?」と思ってしまうのもそうだが、それ以前に、音楽として難解で、現代音楽を聴いているような気分になってくる。

ベートーヴェンの交響曲やピアノ曲は、どれも晩年の作品に至るまで、難解な部分はところどころあっても、全く旋律が読めない訳ではなく、聴いていくうちに共感できていく。

しかし、この大フーガに関しては、共感というものの概念がそれまでの楽曲とは少し違う気がする。20世紀の現代音楽の方が、もっと恣意的でわかりやすいぐらいだ。
それは、この曲が、ソナタ形式とかフーガ形式とか言う、いわゆる古典的音楽の「形式」「様式」に厳密に則って書かれた音楽だからだ。古典的な形式、様式を頑なに守りながら、全く新しい表現方法にチャレンジしている。
これが現代音楽なら、調性も形式も全て吹っ飛ばして書かれているのだから、自由に聴けばいい。
どっちがラクかと言えば、現代音楽の方が作る方も演奏する方も聴く方もラクだ。

決まりきった枠の中で、前代未聞の事をやってのける事ほど難しい事はない。

それでも第一楽章から第四楽章辺りまでは特別難解な曲ではない。室内楽が好きな人なら、ベートーヴェンの芸術の進化を目の当たりでてきる、美味しい展開に聴こえると思う。

しかし第五楽章ぐらいからベートーヴェンの芸術の境地が、聴衆を置き去りにしてひとり歩きを始める。フレーズ自体は優雅で親しみやすいのだけれど、いつまでも終わらないのだ。「ここがコーダ(終結部)かな?」と思うところで終わってくれない。延々と最後まで展開フレーズのくり返しの連続だ。
実はこの終わらなさ加減(無窮動)というのが、次の楽章の主題につながる。

第五楽章でゆるやかに続いた無窮動は、第六楽章、つまり大フーガで大爆発を起こす。前楽章でアダージョで延々と続いていた終わりなき展開が、今度は大フーガではアレグロで延々と続く。もう、それこそ延々と。しかもそのパワーは終盤に近づくに連れてどんどん強く大きくなっていく。
これが大フーガの取っつきにくさの一端のようにも思う。そのエネルギーはいや増しに増す。この無限ループのエネルギーが、まずは前代未聞の要素の一つ。

しかし大フーガの凄さ素晴らしさを形容するのに、それだけでは決定的に不足している。そういう前楽章からの流れがなくても、大フーガは大フーガとして、単体の曲として成立する完成度、凄さを持っている。

その秘密は、大フーガの主題(提示部)のフレーズにある。この主題、おそらく我々が「音楽」として耳にする音の中では、最も聴き心地が悪い旋律だ。音で言うと


ソ-ソ#-ファ(↑)-ミ(↑)-ソ#-ラ-ファ#(↑)-ソ(↑)

<※(↑)は1オクターブ上>



という、全て半音と6度飛びという、およそ不協和音以外の組み合わせしか考えられない音になっている。オクターブを取ると、全て半音同士だ。

例えば拳で鍵盤をランダムに「ダーン」と叩きつけ、出た音を組み合わせ直し、なるべくフレーズとして成立しないように並べると、こんな提示部になる様な気がする。

これは、ベートーベンは意図的、意識的にこうしたのだと思う。ほぼ確信を持ってそう思える。(既に常識ならごめんなさい。評伝や批評文等をあまり読んでないので)

かつてバッハがでフリードリヒ大王から難題の主題(この主題旋律も気味の悪い半音下がりが続くなかなかヒドイものだ)を示され、これで6声の曲(対位法で)を即興で作ってみよなどという無理難題を突きつけられ、しかし最終的には「音楽の捧げもの」という名曲に昇華した出来事の、まるでオマージュのようだ。


普通の才能で、この主題を持ってこられても、まず音楽にはならないだろう。ましてフーガや対位法に至っては、決して和音など生まれるはずもない難解な主題に見える。現代音楽やジャズですら、決してありふれているとは言えない旋律だ。そんなフレーズを今から200年近くも前の、様式でガチガチだった時代に提示し、いかに音楽にしてゆくか、チャレンジ、挑戦、前衛以外のどんな形容が当てはまるだろうか。

実際のところ、当時の人たちには理解されずに終わった。
それは、この曲の持つ主題の難解さ、激しく情緒性のない無窮動だけが耳に届いたからなのだろう。

しかし、本当はこの曲にはもっと深い秘密が隠されている。
これまでの大フーガの特徴をまとめると

  1. 難解でそれ自体では音楽と成り得ない主題フレーズ
  2. まるでミニマル・ミュージックのような激しい無窮動
  3. それによる情緒性の欠如

これが、大フーガの特徴でもあり、我々を遠ざけている主な原因だ。

しかしこの3つの点だけに拘っている限り、この曲の最も重要な点に気づかないで終わってしまう。
その大切な点とは何か。

それは


  1. 4つの楽器全てによる、フレーズのアルペジオの分担が起きていること(三連のち四連)
  2. その連続が、そのまま主題の旋律を作り出していること


繰り返すと
まず最初に主題があり(しかもそれ自体は旋律としては自立し得ないほどランダムにそれを使ってそれぞれの楽器が一音ずつ三連アルペジオの構成音に分解してフーガを奏でる。シンコペーションのあとで、今度は四連のアルペジオになる。それは全て破綻のない旋律と和音で構成される。そしてさらにそれを俯瞰すると、再び大きな「主題の旋律」が見えてくる。

これほど難解な主題でありながら、緻密な和音構成が一瞬たりとも崩れる事がない。(演奏者のタイミングや技量によってそれがちゃんと再現されている時とされない時があるが)

分析的、数学的、幾何学的、文学的、哲学的、ユーモレスク、大迫力、そして音楽的。

というか、この事に気づいた瞬間、もう私はベートーヴェンにひれ伏すしかないと思った。
さいころを振ったような主題から、交響曲にも全く引けをとらない壮大さと、数学的緻密さ、深い精神性、ドラマチックさを兼ね備えた音楽が生まれる。
ベ−トーヴェン自身の他の16曲の四重奏曲はもちろん、ハイドンやモーツァルトにだってなかった、前代未聞の音楽芸術だ。


作曲も度を越して難しければ、演奏者の解釈や技量も難しい。そして聴き手にとっても難解だ。
しかしこの曲には、作曲者、演奏者、聴き手の三者が、それぞれお互いに共感をわかちあう、ある境地が、確かにある。
主題の難解さと、それをフーガにする難しさ、そしてその意味に思いを馳せ理解を試みようとする時、初めてこの大フーガの全曲の全容が見える。

左脳でまず分かり、理解できた瞬間に、右脳で全てが共感に変わる。これがベートーヴェンが最終的に目指した芸術(哲学的音楽)なのかもしれない。

このセオリーはあの交響曲第九番でも存分に発揮されている。第九は、「歓喜の歌」が含まれる合唱部分がポピュラーになっているが、実際、第九の歓喜の歌は、それまでの第一楽章〜第三楽章と、独唱が始まるまでの第四楽章の器楽演奏の果ての結果であって、それだけで成立するものではない。

ただ、私達はあまりにあの喜びの歌を、日常的に耳にしているので、誰でも分かっているように感じている。しかしそもそも歓喜の歌だけで第九が成立するなら、第一楽章から第三楽章までは、必要ないのだ。実際、第九を原語で歌える人にも、第三楽章までをきちんと聴き込んでいる人はそう多くはない。全楽章を聴き込めるかどうかで、第九に対する理解はだいぶ変わってくる。


などと書いてはいるが、私自身も、この大フーガを抵抗なく聴けるようになったのはここ数年の話(いや、半年か1年かな)。プロの音楽家ならみな知っている事なのかもしれないが、鑑賞者としてはこれに気づくのに相当の時間を要した。


まあ、自分なりに聴きこみ方を発見した喜びは小さくなく、いつか大フーガのことについて紹介してみたいと思って、思いと考えがまとまりやっと書くことができた。いや、まとまってないかも。また聴きこんでいくうちに違う理解の仕方になって、考えは変わるかもしれない。

ちなみにこの13番はベートーヴェンが亡くなる2年前、54歳の時の作品、第九番よりも後だ。

この13番(と大フーガ)は、実は15番の後に作曲されたが、出版の順序が逆になったせいで、15番より若い13番という番号をつけられている。また、16番はこの13番とほぼ同時期に書かれており、13番よりずっと肩の力が抜けていて、軽い作品になっている。実際には13番の最終楽章「大フーガ」こそが、ベートーヴェンの室内楽における芸術の結実と言える。



Youtube 

Beethoven - Große Fuge(大フーガ) B-Dur Op. 133 - Alban Berg Quartett



2012年4月16日月曜日

ブルックナー交響曲第2番ハ短調

ブルックナーは、ベートーベンやワーグナーのような音楽を書きたかった。でも、美しい導入を書き始めていいところまで行くと、急に迷いが出始める。「こんなありきたりのフレーズでは、先人達の交響曲に並ぶのは申し訳ない。」

そこでそれまでの導入とは違う展開を急に書きだす。それはもう試行錯誤、未熟者の迷い以外の何物でもない。こうして直前の美しい導入フレーズが台なしになる。

こうした迷いの連続が、ブルックナーの作品にはあちこちに現れる。特にこの2番を含む初期の交響曲には、満載だ。
私はそんなブルックナーの2番が大好きだ。

世の中のいろんなものに囚われ、彼の純粋性を侵犯されながら、いろんなものにチャレンジしながら、最終的には自分でも訳の分からないものに変容してゆく。

しかし、それはひとたび演奏されるやいなや、演奏する者、聴く者に深い洞察力と集中力を呼び起こす。
作者が思いもよらなかった高い芸術性、精神性が、この迷いの集合体に与えられてしまった。

もしもブルックナーがフレージングの天才で、自信満々で誰の忠告や批評も気にせずに交響曲を書いていたら、こんなにも素晴らしいものは生まれなかったのではないのだろうか。

いや、実際彼は天才なのだ(奇人とも言えるが)。しかし自分の天才ぶりをわざわざ否定して、新しいもの、違うもの、自分が踏み入れたことのない世界に突撃してうんうん苦しんでいる。

だから彼は自分の書いたものには常に自信が感じられない。意図は意図を外し、いつもどこかに行方不明になる。
おそらくブルックナーは、自分の凡才ぶりにいつも苦悩していたに違いない。

しかしそんな彼が、自信なく、迷い道でこけつまろびつしながら書き、発表し、他人の言われるがままに手直しした交響曲は、人間の奥底にある全てのものが表出される偉大な芸術になってしまった。
不安や苦境、苦悩、迷い、子供のような喜び、壮大なものへの憧れ、癒し、安寧、生きることの素晴らしさ、神への畏敬の念。。。それらが存分に表現され、魂に伝わってくるのだ。

もちろん本人はそんなことは意図していない。意図どころか思いもよらなかったのだろう。
彼が書きたかったのは、もっと日常的で敬虔なものだったように思う。(彼自身の解説からも窺える)
しかし、そんなものは後世の演奏家達の音楽には全くもって反映されていない。

でも、だからこそ素晴らしい。


才能にあふれていたり、修行して修行して、ある境地に達し、意図通り、あるいは意図も消して、結果としてサラサラ一筆書きのように書いて「名人」とか「天才」とか言われるような人にも、まあそれなりの存在価値はあると思う。その瞬間は人を感動させ酔わせる力がある。

しかしそれは、結局のところ、軽い。存在が軽いのだ。時を超えるほどの重量を伴うことができない。だから結局、その名人や名人と同じような才能を持つ人間の中でのみ収束する。

大好きなピカソですら私は軽いと思うことが多々ある。
彼の作品の中には、素晴らしい作品がたくさんあるが、結局のところ将来的にピカソを超えるような偉大な芸術家が現れた時には、相対的にはかなり埋もれるだろうなというものが結構ある。それは決まって、作者が才能と修行の成果でさらさら書き、発表された時点では絶賛されたものばかりである。
まあ、一部の骨董好きやマニアにとっては、そんなことはどうでもよいのだろうけれど。

しかし、本当の芸術は作者というアイコンを離れざるを得ない。アイコンを離れても存在し続けなければならない。作品自体がアイコンになる。ミロス島のヴィーナスのように。


最終的にそのようにして残り、人々の心にいつまでも深く刺さるのは、自信満々や余裕で書いたものではない。
結局のところ、時代を超えることができるのは、どんな天才であろうと凡才となって、才能以上の背伸びをして、うんうん苦しみながら、意図に意図を重ね、何かに絶えず怯えながら、苦しみ抜いて「結局ここまでか」と、半分うちひしがれながら世に問うたものだけである。

それこそが作者が創作に込めた全魂である。推敲は意図に意図を重ね塗りされ、下地は見えなくなってしまっている。
当然作者の最初のコンセプトなどは、作者の手を離れた瞬間から既に捻じ曲げられ、作者の精神性は隅に追いやられてしまう。
鑑賞者の解釈すらも勝手に一人歩きする。
そうして人々を感動させる。

最終的には、作者の名前すら忘れ去られる。
そこには感動と、神の意図のみが残る。

ブルックナーの2番とは、そういう凡人が創作の神に愛され、自分の意図を必死に追い求めながら、練りに練った挙句、結局は神の意図のみに従うしかなかった、意図がぐるっと一周して無為を超える価値を持つに至った芸術だ。私はそういう練り物が大好きだ。

無為を超える美しさは、意図を練りに練ってしか得られない。

私も自分の凡才ぶりに絶望し、いつも迷いっぱなしだけれど、ブルックナーの音楽は、そんな自分に希望を与えてくれる、絶対音楽としての最高の精神性、凡才のヒーローだ。




2012年4月15日日曜日

「CDよりもLPの方が音が良い」原因(2)

(1)の続き


アナログプレイヤーには、その仕組み上、副次的に倍音を生成する特質がある。
もう少し正確に言うと、「倍音のようなもの」を生成する特質。
それは、雑音を生成する特質と同じだ。


それは、フィードバックと、歪み。



フィードバックとは、一度スピーカーから出た音が、再びプレイヤーの本体を共鳴させ、カートリッジ(振動を検知する部分)に拾われて、音として再生する事を言う。オーディオの世界では、このフィードバックは、「ハウリング」と同一視しており、あってはならないものとされている。だからプレイヤーは基本的にインシュレータや堅い材質などで音の波動を遮断するように作られるし、置き方も細心の注意を払って、スピーカーの共振の影響を受けないように設置するのが常識だ。


ところが本来はフィードバック現象は非常に微妙な響き、音色の変化をもたらす。例えば楽器にはフィードバックは不可欠であり、これが起きない楽器は「ない」と断言できるほど音楽の世界では当たり前の現象だ。

例えばバイオリンやアコースティックギターなど箱鳴りする楽器は、必ずこのフィードバックが起きているし、ピックアップで電気的増幅をするエレキギターでさえ、木の材質によって全く音色が変わってしまう。弦の音を木が共鳴させている自音の共鳴以外に、一度アンプから出た音などが再び楽器のソリッドボディにフィードバックされ、共振して新たな響きが生まれ、それが弦に作用して再びピックアップに拾われる現象が起きているからだ。

弦の振動を拾って増幅する自音共鳴と、フィードバックは似ているようで全く違う。

楽器の胴から増幅された音は、空気中を振動させ、壁や床、あるいは他の楽器の胴をも共振〜共鳴させる。そうしてミックスされた音は全く違う音、倍音や残響(リバーブ)となって再び自分の楽器に返ってきて、再び共鳴する。

エレキギターの場合、アンプを介さずに録音した(ライン録り)ギターと、アンプからマイク録りした音では、まるっきり表情が変わる。
ライン録りの音は、楽器のボディなどで共鳴だけはするが、外部からの音を拾って再び共鳴するフィードバックが全くないために、ペタっとした音になる。
対してアンプ〜マイク録りの音は、空間に発せられた音が楽器のボディやピックアップにフィードバックして響きが膨らんだ音になる。

フィードバックは、原音とは全く違う音を生み出す。
それは倍音であったり、さらにマイクや耳には聞こえない(拾えないが認識できる)振動だったりもする。

そしてこのフィードバックの音域が広い楽器は、倍音成分が非常に多く、倍音のパワーも高い、良い鳴りの楽器と言われる。フィードバックは共鳴と相まって、楽器にサステイン(減衰持続力)を持たせる。
このサステインこそが、倍音の元になるのだ。

倍音は、耳に届く音というよりは、身体のあちこちが感じる音の成分だ。
そしてこの倍音成分の殆どは、マイクで拾ってスピーカーで完全に再生することはできない。

モンゴルやウィグルの伝統的な歌唱法である「ホーメイ(ホーミー)」をご存知だろうか。喉の地声で歌う通奏低音と、口の中でその倍音を出す、一人二声による独特の歌唱法だ。名人になると、地声と倍音旋律を、二声別々の旋律で歌うことができる。

このホーミー、歌い手からどんどん遠ざかっていくと、地声の方は距離に応じて遠くなっていくが、倍音の方はいつまでも聴き手の耳元で鳴っているように感じる。

実際に聴けば、これが鼓膜を刺激しているというよりは、耳骨に直接働きかけている事がすぐに分かる。

教会で歌われるミサ曲では、合唱が進んでいくうちに、誰もその旋律を歌っていないにも関わらず聴こえる不思議なメロディが聴こえることがあるという。それを昔から「天使の声」と呼んでいる。

当然、これらの現象は、CDやレコード録音などでは決して味わうことは出来ない。
もちろん可聴域の倍音成分もあるから、理論上は録音再生できることになっているし、実際にCDでもホーミーの高い旋律はちゃんと聴こえる。しかし、遠く離れてしまえばその旋律も遠ざかるし、やはり実際に聴くホーミーとは全く違うものである。
これが、私達が「CDでは聴けない音」の最たるものだと思う。私はこれを勝手に「超倍音」と呼んでいる。もしかしたらちゃんとした専門用語があるのかもしれないが、可聴域でありながら、録音できない倍音だから、超倍音である。

楽器や生のコンサートのフィードバックで起きる音響成分は、このホーミーの超倍音や天使の声と同質だ。
ホーミーの超倍音と同じものが、コンサートホールでもフィードバックで起こる。ホールの残響が楽器に戻り、楽器がさらなる響きを出す。それらはお互いに共鳴しあって、全く意図しない「別の音」を生み出す。そしてそれらはマイクでは拾われていない。録音された時点でフィードバックによる超倍音は殺されている。

ところが、アナログレコードの場合、この超倍音が部分的に再生されてしまうことがある。いや、正確に言うと、「コンサートの時にあった、マイクでは決して拾う事ができない可聴域の超倍音に似た成分が、新たに生成」されてしまうのだ。
もちろん演奏時の超倍音と同質のものとは言い難いし、完全に再生成されるわけではない。似たものが、再生成される瞬間があるということだ。その瞬間は、数秒の時もあれば、一曲に渡って続くこともある。録音の状態にも左右されるので、絶対に起きるとは言い難いが、概ね聴き手の方の再生環境に以下のような条件が揃っていれば、聴くチャンスは増えるかもしれない。


  1. アナログプレイヤーのベースが、ハウリング特性が低い、やや共鳴しやすい木材で作られている。つまり、あまり高いプレイヤーでも、安いプレイヤーでもこの現象は起きず、なんとなく中途半端なグレードのプレイヤーに起きやすい。
  2. 床や壁が、レコードで演奏されている楽器と同じような材質の木材で構成されている。本木のフローリングや板壁、または漆喰壁で起きやすく、和室や合成素材の床、吸音性の高い壁では起きにくい。
  3. スピーカーの材質も、やや共鳴しやすい木材で作られている。スピーカーに関しては共鳴を前提に作られているものは多いので、ある一定の水準以上で作られたものであれば概ね起きると思われる。
  4. スピーカーとプレイヤーがインシュレート(絶縁)されておらず、同じ音伝導率の素材の上に乗っている。
  5. ボリュームレベルがある程度必要。レコードであっても、ヘッドフォン再生はもちろん、スピーカーのボリュームをゼロにしていても得られない。
  6. 以上のような現象によって、フィードバックによる倍音の再生成が行われ、結果として音圧や膨らみが増して臨場感が高まったと捉えるために、良い音であると耳が感じる。
  7. 特に「鼻に抜ける音」が多くなる。これが実際の楽器演奏の音と同質かどうかは分からない。少なくとも録音時の音をそのまま再現しているわけではなさそうだ。しかし、耳ではなく鼻に抜ける感じの音はコンサートホールでも実際に体験できるし、鼻に抜ける音を感じた時、私達はイイ音であると感じる。

この現象は、デジタルのみの録音→再生では決して起こる事はない。もちろん壁などの反射で残響そのものは耳に届くが、それはあくまでも部屋の残響の域を超えることはなく、超倍音を生む事はない。

しかし、一度アナログレコードをある一定の音量以上で再生したものをデジタルで録音すると(ここはライン)、超倍音とまでいかなくても、ターンテーブルでのフィードバックによって生成された倍音成分は確かに増えた。結果として、売られているCD以上の「臨場感」で聴く事ができた。これが先に紹介したドゥービー・ブラザーズのレコードの顛末。



もう一つの要素の、歪み。これも本来は雑音要素だ。
しかしフィードバックと歪みは、切っても切れないクルマの両輪。
歪みがなければフィードバックはなく、フィードバックがなければ歪みも起きない。
歪みとはとても大切な音の要素だ。

エレキギターは、アンプで増幅する段で必ず歪んでいる。ギターアンプは、どんなにクリアトーンであっても必ず歪み性を持っている。
クランチと呼ばれるかすかな歪みを含ませた音が、倍音も強くなり、キレイに、気持ちよく聴こえる。

ところが、オーディオアンプなど歪み率の低いアンプで再生するなど、完全に歪みを取り払ってしまうと、いわゆるショボい音になり音が沈んでしまう。

バイオリンは、弓で弦を擦る段で既に歪んだ音(ノコギリ波)を発生させるが、弓の使い方や状態によっては、全く歪まない音というのを発生させることが、一応できる。できるが普段はやらない。バイオリニストにとっては、それはミスに過ぎない。

良い音というのは、音源から発せられた瞬間に歪みを起こし、フィードバックを起こし、倍音を発生させる。

教会やホールの残響にも歪みが含まれている。エコー音は元音と干渉しあって歪み、分離性を阻害し、結果的に様々な倍音を発生させる。


CDは理論上、この、「倍音や音圧を発生させる歪み」に関しては全く機会がない。だから、何となく貧弱になったような「気がする」。しかしこれは聞き比べないと分からないレベルだ。


CDであっても、歪率の高い真空管アンプなどで再生すると、とてもふくよかな音として聴こえるのは、CDでなくしてしまった本来の自然な歪みを、アンプの段階で擬似的に増やし、倍音を発生させているからなのだ。

しかしこれも、現実の音にはあったのに、録音時になくしてしまい、再生時に再び「〜のようなもの」として再生成されたもので、実際の超倍音とは違う。それでもないよりは良い。


もちろん歪みやフィードバックが起きればいいというものではない。人間の耳は歪みが少なすぎても多すぎても耳がそれをイイ音と捉えないようにできている。歪みすぎる楽器が楽器にならないのと同じ。

私の経験で、CDよりレコードの方がいい音と感じた音楽、つまり超倍音が再生時に生成されがちなものは
  • 教会等で録音された、通奏低音や対位法の演奏(バロックなど)。元々倍音成分が多い宗教音楽のコーラスなどは特に響く。
  • 室内楽などの中規模の合奏曲。
  • シンプルな構成のベース、ギター、ドラムの演奏。70年代のアメリカのフォーク・ロックなどは、特に倍音成分が再生成されやすいように感じる。
  • 純正律に近い調律法で録音されたとされるもの。
  • ライブ演奏で、倍音成分が多かった(音響が良かったとされる)クラシック
  • 金管の入ったジャズ演奏
  • チェロ、コントラバスの音
など。

逆にレコードもCDもあんまり変わらない、あるいはレコードでも別にイイ音とは感じなかったもの、超倍音が出ることが少ないと感じたもの。


  • 不協和音の多い曲。ドビュッシーやウィーン楽派、ミニマル、現代音楽。
  • ピアノソナタやジャズピアノなど、独奏ピアノ。
  • 交響曲は演奏方法や録音によって極端に違う。
  • 残響の少ないデッドな演奏。
  • ラインまたはオンマイクで録ったと思われる楽器の音。
  • エレクトリックミュージック、電子楽器。



CDをもっといい音で聴くために、超倍音生成機みたいなものを開発すればいいと思う。サラウンドシュミレーターのようなもので構わない。そうすれば、誰もプチノイズだらけのレコードを「CDよりいい音だ」などとは言わなくなると思う。


2012年4月11日水曜日

ブルックナー交響曲第8番ハ短調




この気持をなんと表現したらいいのだろうか。
未だに適切な言葉を失っている。
チェリビダッケという幻の指揮者である。

今、ブルックナーの8番に耽溺しまくっている。
そして、あまりに意外な展開に自分でも混乱している。

ブルックナーについての解釈、いや、音楽についての価値観がひっくり返ってしまったのだ。
それは、チェリビダッケの録音のせいだ。

一言ではとても言えないし、言葉を並べてもその1%も表現することはできないが
汪溢する豊かな倍音、音の遠近感、色彩感、霊感の刺激、塊の波動、救いへの引力。

これが、チェリビダッケを通じて、ブルックナー交響曲8番に対して、私が完全に持った印象だ。

恥ずかしながら、私がチェリビダッケの名前をはっきりと意識して知ったのは、今年(2012年)に入ってブルックナーの8番を真剣に聴き比べするようになってからだ。
テレビに映った姿は生前に見た記憶がある。座って指揮をする姿が印象的だった。立つのはしんどそうだったから、もう晩年の頃だったのだろう。
しかしちゃんと聴いたのは、今年に入ってからだ。情けない事に、彼の没後15年も経っている。今ほど、自分の指揮者に対する無知を恥じたことはない。

チェリビダッケを聴いた後では、カラヤンもクナッパーツブッシュも、大変に失礼だが、ただの雑音に過ぎない。今まで自分が聴いていたものは、一体なんだったんだろう。

チェリビダッケは録音嫌いで有名で、そのせいで生前はコンサートに出かけなければ彼の演奏を聴くことは困難だったという。こういうことも、彼を幻にしてしまった要因ではあると思う。彼は根本的にCDやレコードを認めてはいなかった。録音では彼の言うところの音楽は再現できないのだという。
それは、音楽芸術というものの一般論として何となく分かるような気がする。音楽とは、マイクで拾える音波だけではあり得ない。録音には現れない倍音、魂の交流、波動、氣のやりとりがある。演奏者と観客双方の高揚と霊感の共有がある。それは録音つまりレコードやCDだけを聴くのでは伝わらないし、絶対に理解できない。実体験そのものだけが音楽の本当の体験だ。特に生音を生身の人間が奏でるクラシック音楽においては、録音と生のコンサートとの間には、決して越えられない、かつ大きな大きな壁がある。

特にスタジオ録音(or観客のいないホール録音)には魂の抜けたような録音が山ほどある事は私もよく知っている。音楽家達自身の多くも、それを収入のため、あるいは契約のため、自身のPRのためと割りきっている部分があることも知っている。クラシックにおいては音楽の根幹はあくまでもライブなのだ。ライブにも行かずにレコードだけを聴いて「あいつの演奏はいい」「こいつのはよろしくない」とやっているとすれば、それは音楽が何たるかを全く分かってないに等しい。プロの音楽家の多くがレコードマニアを嫌う理由はそこにある。

しかしそれでもなお演奏家や作曲家をより深く知るための「資料」「教科書」として、我々はそれを十分ありがたがって聴くだけの価値はあるし、近年のCDの音質の向上によって「そこで一体何が行われたか?」ぐらいの推察はできるようにはなってきた。それはライブ体験とセットにすれば「鑑賞物」として十分価値のあるものにはなっていると思う。
そう、あくまでも「ライブ体験とセットにすれば」である。

ライブでチェリビダッケの指揮する音楽を聴いた人は、その後の人生が変わってしまうほどの体験をしたという。それほど強烈なライブ体験とは一体どういうものなのだろう。

CDを求める前から、チェリビダッケが録音を否定した人であるということは知っていた。
ただ、それでもなおかつCDであっても
「今まで自分が聴いてきたものは、一体なんだったのか?」
という思いが爆発するほど、ものすごいインパクトなのだ。
録音でこれほどの衝撃を受けるのだから、コンサートではいかばかりだろう。
自分の意志で「やや真剣に」クラシックを聴くようになって以降、チェリビダッケは少なくとも2回は来日している。まあ、チケットが取れたかどうかは分からないけれど、少なくとも2度はチャンスを逃している事になる。
つくづく自分の不明を恥じるばかりだ。

チェリビダッケ以前のBruckner Nr.8は、私にとっては第二楽章が全てで、第三楽章はどうしても超えられない壁だった。誰のを聴いても眠くなることは避けられなかった。
もう少し言えば、演奏家の方にも、これはブルックナーの交響曲全般に言えることだけれど、集中力の途切れみたいなものを感じることがある。
これは、リスナーとしての自分の技量だけでなく、指揮者自身の解釈にも原因があるような気がずっとしていた。咀嚼しきれてないのではないか?という疑念。
そんなぬぐいきれない思いを抱きながら聴くものだから、余計に退屈になる。
本当に理解に苦しむフレーズがあちこちにあるのだ。

そんな第三楽章でも、指揮者を問わず1箇所(実際にはリピートがあるので2箇所)のコーダ部分だけは、しっかりと伝わってくる。
これ以外は、弦も管も、音が濁って何がなんだか分からない。
で、早々に第三楽章を済ませて、第4楽章の第一主題が始まると、オーケストラ全体が、ほっとしたように引き吹きまくる。これが余計に、実に気持ち悪い。

ところが、チェリビダッケの第三楽章は違う。音がどこまでも澄んでいる。透明感、色彩感。
引き込まれる。
分かる、分かる!ここも分かる!
こんな音楽だった?版が違うんじゃない?いや、普通にノヴァーク版らしいぞ。(ブルックナーの交響曲には、本人や弟子達、研究家などの手によっていくつかの改訂版があって、演奏が違うものがある)


気がつくと、微動だにせず、じっと聞き耳を立てている自分がいる。


こんなに引きこまれ、微動だにせず、音を全部聞き漏らすまいとしたのは生まれて始めてだ。
そして、感動の第四楽章〜コーダ。こんな終わり方だったのかと、涙が溢れる。もう一度聴きたい。いや、いつまでもこの音の中に浸っていたい。そう思わせる演奏だ。

通常80〜90分前後と言われるブル8の演奏の中では、105分を超えるチェリビダッケの指揮は、飛び抜けて長時間の演奏(つまりとてもゆっくり)だとされる。冗長にすぎるという指摘もあるが、私自身はまったくそんなことは感じなかった。むしろ短かすぎるぐらいである。
無駄な演奏、弾き流しはどこにもない。一音一音が意味と意志を持ってこちらに飛び込んでくる。全てが美しい。そして霊感と魂を揺さぶる。
ブルックナーとは、魂の音楽だったのだ。

チェリビダッケによって、今までの自分がいかに音楽を知らなかったか、上っ面だけでBrucknerを聴いていたか思い知らされた。

ところで、チェリビダッケの演奏について誰も指摘していないことだけれど、チェリビダッケの指揮する演奏の魔法のような魅力の原因の一つに、チューニングの問題があるように思う。
詳しくは検証していないので軽はずみに書いて、後で訂正できるようにメモがわりにしておくに留めるが、もしかすると彼は、曲の和音の構成まで全て一つ一つ検証して、純正律に近い和音構成が出るようにチューニングしていたのかもしれない。そうでなければ、この和音、倍音は出ない。
複数の楽器のフレーズが被った時の「鳴り」が、他のオケの演奏とまるっきり違うのだ。


もっとも管はピッチをそんなに極端に変えられないので、絶対的な調律が変わっているわけではないだろう。おそらく楽譜の全ての和音構成を、チェリビダッケ自身が把握して、和音構成と遠近感を計画しているように思える。「この和音が奏でられるためにチューニングされている」としか思えない瞬間がここかしこに存在するのだ。チューニングに15分も20分も指揮者自身が立ち会うという逸話を聞いていると、さもありなんと感じる。それだけチェリビダッケの指揮するオケの奏でる和音は、この世のものとは思えない美しさを放っている。


よく練られた音楽は、空間を浄化するほどの力を持っている。ブルックナーも、チェリビダッケも、そのことを知っていたのだ。
チェリビダッケは、音楽の本当の力を引き出すことに成功している数少ない音楽家だと思う。
彼自身は録音というものを認めていなかったけれども、それでも最低限の歴史に残るべきものはしっかりと伝えてくれている。

何よりチェリビダッケの録音は、ブルックナーが難解な音楽などではなく、退屈で冗長な音楽などでもなく、非常に親しみやすい、美しい調べなのだということをちゃんと教えてくれる。
感謝の気持ちでいっぱいだ。



〜その他の8番〜

我が家には、長いことこのフルトヴェングラー&ベルリン・フィルの録音があったのだけれど、すっかりその存在を忘れ去っていた。そのことに気づいたのは今年に入ってからだった。それで、ブル8の聴き比べがしたくなった。


1949年録音で、音は全くよろしくないが、このフルトヴェングラーの演奏はとてもエネルギッシュで、情感がいっぱいに伝わってくる。多くの指揮者の規範になっているだけあって、まとまり感がとても高い、素晴らしい演奏だ。
ちなみにこのベートーヴェンの申し子のような神的指揮者フルトヴェングラーは、ブルックナー協会の会長でもあった。



オイゲン・ヨッフムとスターツカペレドレスデンのブルックナーは、とてもニュートラルで聴きやすい。他の指揮者に比べるとやや短い(約80分)が、チェリビダッケがそうであるのと同じく、長い短いが問題ではない。ヨッフムの80分は、これでいいのだ。私はこのヨッフムのブルックナーは、かなり理解できると感じる。共感できるところとそうでないところはあるにせよ、第三楽章もしっかりと音楽として成立している。手元にはヨッフム先生のブルックナーが、1,2,4,6,8,9と揃っていて、私のブルックナーの原体験はほとんどヨッフム指揮だと言っていい。おしなべて濁りが少なく、実直で好きな演奏ばかりだ。
ちなみにヨッフムさんもまた、ブルックナー協会の会長を務めたことがある。



巨匠の誉れ高きクナッパーツブッシュ大先生とミュンヘン・フィルの、名盤と言われる8番だが、残念ながら私の感想ではそれほど素晴らしい演奏だとは思えなかった。演奏が粗くところどころ苦しくなる。これのどこが名演なんだろう?何度も繰り返し聴いたが、やはり第三楽章で頓挫する。
最終楽章も、管はがなり立ててミスはするし、弦も雑だ。
私が持っているのは復刻の新品CDだが、新品で買う必要もなかった。LPは21,000円ものプレミアムが付いて中古ショップに置かれてあったが、誰が買うんだろう。こんなものに2万も出す気持ちは分からない。クナッパーツブッシュは、8番の他に、4番と3番が手元にあるが、そっちの方がずっと良い。オケがウィーンであることと、曲自体が当時流行だったというワーグナー節全開なのも手伝っているのかもしれないが、クナッパーツブッシュ先生の名誉のために申し上げておけば、例えば4番(ロマンティック)は、粗さの中にも情感と描写力に溢れる、素晴らしい演奏だ。ブルックナー自身の解説をよく吟味しているのだと思う。ベーム指揮の4番よりも好きだ。
ところで子供の頃は「クナッペルツ…」と教えられていたがいつの間にかクナッパーさんになっていた。





88年のカラヤン先生のブル8。これも残念ながらあまり素晴らしいとは言えない。ブルックナーが聴きたいという知人にこれを薦めてしまったが申し訳ないことをした。全編通して何が行われ、何が奏でられているのか全く分からない難解な物となっている。分からないから眠くなる。眠りかけたところで管が爆発して起こされる。その繰り返し。残念ながら最後まで聴き通せなかった。カラヤン先生の音楽は元来、シャープでスピーディでカッコイイ。長いフレージングをフォルムとして削り出し、まるでデザインモックアップのように目から鼻に抜けるようなモダンな感覚だ。単音による主題の旋律の美しさに裏付けられた曲では大いにその魅力を発揮する。しかし、ブルックナーのような、一見抽象的だが、実は厳密な調性と、綿密な和音と対位法の組み合わせによって構築された複層的音楽においては逆効果になってしまうのだと知った。

2012年4月4日水曜日

ブルックナー交響曲第6番・ヨッフム&ドレスデン国立管弦楽団


ブルックナー交響曲第6番・ヨッフム&ドレスデン国立管弦楽団・EMI・1978年録音・LP

ブルックナーの交響曲の主題は、ベートーベンやブラームスのように鼻歌で「こういう曲だよ」という風に人に伝えられるフレーズが一つもないと言っていいかもしれない。
調性が壊れかかった時代のマーラーでさえ、歌えるのがあるというのに。

そして、0番から(ブルックナーには、0番とか00番というおかしな番号のついた交響曲がある)9番まで、ブルックナーの交響曲はどれも似た様なフレーズ、似た様な始まり、似たような間、似た様な展開を経て、似たような終わり方をする。他の曲で使ったはずの主題や動機が、別の交響曲でもしれっとして出てくる。

そして究極的ダメ押しのように、どれもとても長い。とにかく長い。1時間の交響曲なんてまだ短い方だ。冗長といってもいい。
ブルックナーの同輩(ライバル)だったブラームスはこの冗長さを「交響的大蛇」とまで称して批判している。

それなのにどういうわけか、ブルックナーの交響曲は、聴きたくなる。くせになる。
ブルックナーが強く影響を受けたの直接の先輩作曲家は、あの有名なワグナー。
ワーグナーはあんなにキャッチーなのに、なぜ。。。というほど掴みどころがない。
ブルックナーの交響曲は、誰のどの交響曲とも似ていない。
というか、日常的にイメージする交響曲とは、どうも聴く観点、概念が違うように思える。

音の洪水の中で、1時間以上に渡って、とにかく瞑想を強いられると言ってもいい。
それと、もうひとつ、どんな指揮者が振っても、不思議な「間」がある。
これは「ブルックナー休止」と呼ばれるものらしいのだが、それまでだらだら続いていた音楽が、突然止まって、全然違うフレーズが始まったりする。
この体験は一体なんだろう。禅の世界と西洋の妖精の世界を行ったり来たりするような感覚。


マーラーのような恣意的な情景を強要されることもなければ、ベートーベンのように熱情を喚起されることも、チャイコフスキーのようにメランコリーを想起されることもない。

とにかく音の洪水があり、それは延々と続き、情緒性を完全に取り払い、内観の世界へと誘う。

ブルックナーは、プロの音楽家にとても人気のある作曲家で、指揮者を目指す人なら、ブルックナーを必ず勉強しなければならないとまで言われる。
もっとも我々素人リスナーの場合だと、ブルックナーを演目に掲げられてもおそらくチケットを買うのに相当躊躇するだろう。
いわゆる「ミュージシャンズ・ミュージシャン」と呼ばれるべき作曲家の、最初の人ではないだろうか。

彼の音楽性について書かれた評論には傑作なものが多いが、その中で、僕がクラシックの評論を読んで生まれて初めて爆笑してしまったものがあるのでひとつ紹介したい。

引用〜
『ブルックナー自身は、たとえば「葬送の音楽」として、あるいは「町の庁舎から、一日の始まりを告げるホルンが鳴ります」(中略)として音楽をかいていたのだが、音楽がひとたび完成されてしまうと、それはブルックナーの意図したものとは、まるで無関係になってしまう。(中略)彼の音楽は、一聴すれば明らかなように、「葬送の音楽」ではないし、「庁舎のラッパ」などでもない。同時にそれはいわゆる悲しい音楽とか、嬉しい音楽というようなものでもない。(中略)となると、ブルックナー自身は作品の後方に取り残されてしまう。作者としての権利を主張するため、夥しいまでの「自作解説」をおこなうのだが、結局は存在し始めた音楽の後方で、なすすべがないままに、彼はとどまざるを得ないのである。その時の彼の姿は、ほとんど手ぶらの状態で、なにやらとても奇妙だ。』〜引用(吉井亜彦著名番鑑定百科より)


まさにブルックナーの音楽の世界を端的に表していると思う。普通は作曲家が何を思ってこのフレーズを作ったのかということについて、音楽家はとても神経質になる。聴き手もある程度知っていた方が楽しめる。
しかもたいていの作曲家の場合、そんな事はあんまり記録に残してない。だからみんな苦労して解釈するし、解説本や評論が成り立つ。

けれどもブルックナーの曲は、そういうのとは全く逆で、本人が書いた、なんだかよく分からない解釈説明やら改訂版やらが溢れている。
にも関わらず、みんなあまり真剣に再現してないような気がする。
「だって、そうならないんだもん。」
だからなんだか演奏する方は「そんなのどっちでもいいんじゃない?」的なノリで、自分なりに楽譜と純粋に格闘することを楽しんでいるように聴こえる。

聴いている方も、自分勝手な世界観や妄想に浸りながら、ブルックナーの音楽を楽しんでいる。

作り手、弾き手、聴き手が、それぞれとんちんかんな方向を向いていても、聴いた後にはちゃんと拍手喝采できるという、不思議でおかしな音楽なのだ。

ブルックナーを知らなくてもちっとも不幸だとは思わないけれど、ブルックナーの音楽を聴けるという事に、なんだか笑っちゃうような幸せを感じてしまうのだ。




交響曲第6番は、そんなブルックナーの中でも異色の部類に入ると言われている。ブルックナーらしくないとさえ言う人もいる。もっともそんなことはブルックナーを知っている人の間で言われていると言われているだけで、普通の感覚で言えば0番も4番も6番も、一部分を切り取って聴けば同じ曲に聴こえる。それが普通の感覚だろう。(いやホントはそれぞれ素晴らしい個性を放っている。。。んだけど、わかりにくい)

言い切ってしまえば、第6番は非常に素晴らしい展開があちこちに散りばめられている珠玉の作品だ。
この6番と5番は、ブルックナー自身がほとんど改訂に手を入れてないのだそうだ。ブルックナーという人は、どうも自信がない人だったようで、支持者や指揮者から「ここを直したほうがいい」と言われると、「そうかな」と言っては言われるがままに手直しをしていたらしい。普通芸術家という自覚を持った人はそんなことはしないと思うのだが。
いずれにしても、この6番は全く手直しがされていない状態で現代に至る珍しい作品だ。

そして緩急に乏しいブルックナーの交響曲にあって、この6番はメリハリの効いたフレーズが多い。また「ブルックナー休止」と呼ばれているおかしな沈黙も、比較的少ない。要するに、例えブルックナーの聴き方を知らなくても、眠らずに聴ける曲の一つなのだ。


ブルックナーというと「4番ロマンティック」を挙げる人が多い。わかりやすい曲調や情景を描写したと思われる表題的主題が多いからなんだろうと思う。
僕もブルックナーを初めて聴いたのは4番だった。でも、演奏時間の短さ、展開の速さ、手際の良さで言えば、また表題的(?)主題についての分かりやすさという意味で選ぶなら、この6番の方が適格じゃないかなと僕は思う。
この6番を先に聴いてから、次に例えば7番を聴いて、その壮大さ、ブルックナーのドツボにはまってもいいのではないかと僕は思っている。
5番までの瞑想的(妄想的)世界観と、7番からの気宇壮大な宇宙的ドラマの中間にあって、ちょうど両方の面白さを持っていると思う。


とは言え、聴き方は自由だ。ブルックナーの場合、「この音が何を表しているのか」なんてことは知らなくていい。自分の心情や体験に合わせて、「こういう場面なんじゃないかな」とか「こういう気持ちなんじゃないかな」とか、自分を中心に世界観の妄想に入り込んでいい。絶対音楽が行き着く一つの境地みたいなものを、覗き見することができる。

そうでもしないと、いろいろ知識をつめ込まないとよく分からない音楽だし。



Youtube
ヨッフムが見つからなかったので、クーベリックで。これも素晴らしい。





2012年4月3日火曜日

「CDよりもLPの音の方が良い」原因(1)


手持ちのLPを「LP→H4n(デジタルレコーダー)→CD」化を始めた。
擬似的な「ADD(24bitデジタルマスタリング)」(笑)だ。
手始めは、クラシック…ではなくDoobieBrothersのベスト。

この作業中に、段々といろんな事がわかってきた。

普段からうんうん唸りながら考え込んでいる、CDよりもLPの音の方が良いと感じる(現象も錯覚も全て含めての官能面での)原因。

例えばDoobieのこのアルバムの場合、CD(もしくはaiffファイル)とLPでは、おんなじ曲でもHiHattと、ファズ(ギター)の音が如実に違う(アナログの方が生音の再現性が圧倒的に良い)。正直まるっきり違うと言っていい。

クラシックだとこの差がよく分からない。「なんだかCDはいつも物足りない」と感じる程度。

でも、薄々、原因は不可聴域の原音周波数なんかではなくて、おそらく10kHz以下の容易に聞き取れる域の、倍音成分の違いなんでは?とは感じていた。
でもそもそも楽器の音が生じさせる倍音などCDもアナログも変わるわけもなく、今ひとつ確信が持てなかった。

それが上記のようにアナログレコードを再生し、それを24bitでアナデジ変換
し、さらに16bitCDに落とすという、いわゆる「擬似ADD」の作業をして作ったCDの音が、アナログレコードの音に肉薄した時に、仮説は確信に変わった。


アナログレコードのプレイヤーは、可聴域の倍音成分が、明らかに増幅されている。
そしてアナログレコードだからといって絶対的に増幅できるわけではなくて、再生方法に条件があることも分かった。

アナログレコードを一定の条件下で再生した際だけ、確実に倍音成分が増幅されて耳に届くのだ。