ベートーヴェン弦楽四重奏曲第13番変ロ長調op.130 大フーガ(op.133)付き
ラサール弦楽四重奏団・グラモフォン・1972年録音・LP
ベートーヴェンには、16曲の弦楽四重奏曲がある。その中で、特に傑作と呼ばれているものが何曲かあり、最後期の13番(作品130と133)は演奏者にとっても鑑賞者にとっても難易度も芸術性も特に高い曲として知られている。
それでその後、この最終楽章は13番から切り離され、「大フーガ」と呼ばれるようになった。
しかし現在、13番は最終楽章を「大フーガ」付きで演奏するものと、平易な第6楽章付きで演奏するものとが並立することになっている。
「フーガ」というのは、対位法(それぞれの声部が独立した曲や旋律を奏でている様に聴こえるが、全体で聴くと和音が成立して聴こえる曲の形式)で書かれた曲の一種で、簡単に言えば、最初にひとつのフレーズが独奏または単音で提示され、それを別の楽器(声部)が次々に度数を変えたり変奏しながら追いかけ演奏してゆく形式の曲だ。J.S.バッハにはこのフーガ形式の名曲がたくさんある。
バッハの超有名なオルガン曲のフーガ・ト短調が、とてもわかりやすい。最初に主旋律の提示があって、後から追いかけておんなじフレーズが被る。
それが前の主旋律と矛盾せずに「対位」しながら曲が進んでいく。
輪唱に似ているけれど、輪唱は全ての声部が常に同じフレーズを追いかけるのに対し、フーガは途中で旋律が変奏曲のように変化していったり、度数やリズムも変わったりする。似た様なものに「カノン」という形式がある。より輪唱に近いものを「カノン」、もっと自由で変奏曲に近いものを「フーガ」と言えば、大雑把だけれど覚えやすいかもしれない。
端的に言って、この大フーガは当時の(今もかもしれない)音楽オタクのための究極の曲だ。
ベートーヴェンは、パトロンである貴族や商人が主催する小さな室内楽の演奏会用に、四重奏曲をたくさん書いているのだけれど、そのパトロンであった貴族・商人たちは、音楽や芸術に造詣が深い人達が多く、いわゆる音楽マニアの人たちだ。
モーツァルトの時代までのパトロンは王侯貴族で、主に「食事用」とか「催事用」とか、そういう実用音楽を必要としていた人たちだ。だから耳触りがとてもいい音楽が多い。しかしベートーヴェンの時代になると、パトロンはより市民に近い人達となり、純粋に「芸術」を味わうために全く違う趣で音楽を聴き、芸術家達に援助した。
だからベートーヴェンも自分の芸術的挑戦や才能を遺憾なく発揮できた。
思う存分その前衛性を発揮し、その究極として生まれたのが、この13番の最終楽章として書かれた大フーガだ。
で、ベートーベンのこの大フーガは、最初の提示部もなんだかとっつきにくい上に、展開してゆくと、もう本当に何が起きているのか、分からなくなる。初めて聴いた時(スメタナ四重奏楽団の録音)には、正直最後まで聴くことができなかった。
まず主題の旋律が旋律としてつかめない。そして一度この主題を見失うとどこまで行っても主題の追いかけっこが見えない。見えないどころか、音自体が混沌としてくる。
「これのどこがフーガなんだ?」と思ってしまうのもそうだが、それ以前に、音楽として難解で、現代音楽を聴いているような気分になってくる。
ベートーヴェンの交響曲やピアノ曲は、どれも晩年の作品に至るまで、難解な部分はところどころあっても、全く旋律が読めない訳ではなく、聴いていくうちに共感できていく。
しかし、この大フーガに関しては、共感というものの概念がそれまでの楽曲とは少し違う気がする。20世紀の現代音楽の方が、もっと恣意的でわかりやすいぐらいだ。
それは、この曲が、ソナタ形式とかフーガ形式とか言う、いわゆる古典的音楽の「形式」「様式」に厳密に則って書かれた音楽だからだ。古典的な形式、様式を頑なに守りながら、全く新しい表現方法にチャレンジしている。
これが現代音楽なら、調性も形式も全て吹っ飛ばして書かれているのだから、自由に聴けばいい。
どっちがラクかと言えば、現代音楽の方が作る方も演奏する方も聴く方もラクだ。
決まりきった枠の中で、前代未聞の事をやってのける事ほど難しい事はない。
それでも第一楽章から第四楽章辺りまでは特別難解な曲ではない。室内楽が好きな人なら、ベートーヴェンの芸術の進化を目の当たりでてきる、美味しい展開に聴こえると思う。
しかし第五楽章ぐらいからベートーヴェンの芸術の境地が、聴衆を置き去りにしてひとり歩きを始める。フレーズ自体は優雅で親しみやすいのだけれど、いつまでも終わらないのだ。「ここがコーダ(終結部)かな?」と思うところで終わってくれない。延々と最後まで展開フレーズのくり返しの連続だ。
実はこの終わらなさ加減(無窮動)というのが、次の楽章の主題につながる。
第五楽章でゆるやかに続いた無窮動は、第六楽章、つまり大フーガで大爆発を起こす。前楽章でアダージョで延々と続いていた終わりなき展開が、今度は大フーガではアレグロで延々と続く。もう、それこそ延々と。しかもそのパワーは終盤に近づくに連れてどんどん強く大きくなっていく。
これが大フーガの取っつきにくさの一端のようにも思う。そのエネルギーはいや増しに増す。この無限ループのエネルギーが、まずは前代未聞の要素の一つ。
しかし大フーガの凄さ素晴らしさを形容するのに、それだけでは決定的に不足している。そういう前楽章からの流れがなくても、大フーガは大フーガとして、単体の曲として成立する完成度、凄さを持っている。
その秘密は、大フーガの主題(提示部)のフレーズにある。この主題、おそらく我々が「音楽」として耳にする音の中では、最も聴き心地が悪い旋律だ。音で言うと
ソ-ソ#-ファ(↑)-ミ(↑)-ソ#-ラ-ファ#(↑)-ソ(↑)
<※(↑)は1オクターブ上>
という、全て半音と6度飛びという、およそ不協和音以外の組み合わせしか考えられない音になっている。オクターブを取ると、全て半音同士だ。
例えば拳で鍵盤をランダムに「ダーン」と叩きつけ、出た音を組み合わせ直し、なるべくフレーズとして成立しないように並べると、こんな提示部になる様な気がする。
これは、ベートーベンは意図的、意識的にこうしたのだと思う。ほぼ確信を持ってそう思える。(既に常識ならごめんなさい。評伝や批評文等をあまり読んでないので)
かつてバッハがでフリードリヒ大王から難題の主題(この主題旋律も気味の悪い半音下がりが続くなかなかヒドイものだ)を示され、これで6声の曲(対位法で)を即興で作ってみよなどという無理難題を突きつけられ、しかし最終的には「音楽の捧げもの」という名曲に昇華した出来事の、まるでオマージュのようだ。
普通の才能で、この主題を持ってこられても、まず音楽にはならないだろう。ましてフーガや対位法に至っては、決して和音など生まれるはずもない難解な主題に見える。現代音楽やジャズですら、決してありふれているとは言えない旋律だ。そんなフレーズを今から200年近くも前の、様式でガチガチだった時代に提示し、いかに音楽にしてゆくか、チャレンジ、挑戦、前衛以外のどんな形容が当てはまるだろうか。
実際のところ、当時の人たちには理解されずに終わった。
それは、この曲の持つ主題の難解さ、激しく情緒性のない無窮動だけが耳に届いたからなのだろう。
しかし、本当はこの曲にはもっと深い秘密が隠されている。
これまでの大フーガの特徴をまとめると
- 難解でそれ自体では音楽と成り得ない主題フレーズ
- まるでミニマル・ミュージックのような激しい無窮動
- それによる情緒性の欠如
これが、大フーガの特徴でもあり、我々を遠ざけている主な原因だ。
しかしこの3つの点だけに拘っている限り、この曲の最も重要な点に気づかないで終わってしまう。
その大切な点とは何か。
それは
- 4つの楽器全てによる、フレーズのアルペジオの分担が起きていること(三連のち四連)
- その連続が、そのまま主題の旋律を作り出していること
繰り返すと
まず最初に主題があり(しかもそれ自体は旋律としては自立し得ないほどランダムにそれを使ってそれぞれの楽器が一音ずつ三連アルペジオの構成音に分解してフーガを奏でる。シンコペーションのあとで、今度は四連のアルペジオになる。それは全て破綻のない旋律と和音で構成される。そしてさらにそれを俯瞰すると、再び大きな「主題の旋律」が見えてくる。
これほど難解な主題でありながら、緻密な和音構成が一瞬たりとも崩れる事がない。(演奏者のタイミングや技量によってそれがちゃんと再現されている時とされない時があるが)
分析的、数学的、幾何学的、文学的、哲学的、ユーモレスク、大迫力、そして音楽的。
というか、この事に気づいた瞬間、もう私はベートーヴェンにひれ伏すしかないと思った。
さいころを振ったような主題から、交響曲にも全く引けをとらない壮大さと、数学的緻密さ、深い精神性、ドラマチックさを兼ね備えた音楽が生まれる。
ベ−トーヴェン自身の他の16曲の四重奏曲はもちろん、ハイドンやモーツァルトにだってなかった、前代未聞の音楽芸術だ。
作曲も度を越して難しければ、演奏者の解釈や技量も難しい。そして聴き手にとっても難解だ。
しかしこの曲には、作曲者、演奏者、聴き手の三者が、それぞれお互いに共感をわかちあう、ある境地が、確かにある。
主題の難解さと、それをフーガにする難しさ、そしてその意味に思いを馳せ理解を試みようとする時、初めてこの大フーガの全曲の全容が見える。
左脳でまず分かり、理解できた瞬間に、右脳で全てが共感に変わる。これがベートーヴェンが最終的に目指した芸術(哲学的音楽)なのかもしれない。
このセオリーはあの交響曲第九番でも存分に発揮されている。第九は、「歓喜の歌」が含まれる合唱部分がポピュラーになっているが、実際、第九の歓喜の歌は、それまでの第一楽章〜第三楽章と、独唱が始まるまでの第四楽章の器楽演奏の果ての結果であって、それだけで成立するものではない。
ただ、私達はあまりにあの喜びの歌を、日常的に耳にしているので、誰でも分かっているように感じている。しかしそもそも歓喜の歌だけで第九が成立するなら、第一楽章から第三楽章までは、必要ないのだ。実際、第九を原語で歌える人にも、第三楽章までをきちんと聴き込んでいる人はそう多くはない。全楽章を聴き込めるかどうかで、第九に対する理解はだいぶ変わってくる。
などと書いてはいるが、私自身も、この大フーガを抵抗なく聴けるようになったのはここ数年の話(いや、半年か1年かな)。プロの音楽家ならみな知っている事なのかもしれないが、鑑賞者としてはこれに気づくのに相当の時間を要した。
まあ、自分なりに聴きこみ方を発見した喜びは小さくなく、いつか大フーガのことについて紹介してみたいと思って、思いと考えがまとまりやっと書くことができた。いや、まとまってないかも。また聴きこんでいくうちに違う理解の仕方になって、考えは変わるかもしれない。
ちなみにこの13番はベートーヴェンが亡くなる2年前、54歳の時の作品、第九番よりも後だ。
この13番(と大フーガ)は、実は15番の後に作曲されたが、出版の順序が逆になったせいで、15番より若い13番という番号をつけられている。また、16番はこの13番とほぼ同時期に書かれており、13番よりずっと肩の力が抜けていて、軽い作品になっている。実際には13番の最終楽章「大フーガ」こそが、ベートーヴェンの室内楽における芸術の結実と言える。
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